みやざきの味と花101ロゴ 白玉饅頭
 
 

●米粉を使いなめらか
 国富町を訪れると、あちこちに「元祖白玉饅頭(まんじゅう)」という看板を目にする。直径4センチほどの米の粉で作った菓子が白玉饅頭である。
 作り方はまずうるち米を洗い、天日で乾燥する。そのあと細粉して熱湯を加えてこね、コブシほどの大きさにして蒸す。そして石うすに入れてきねでつき、こねばちに取り上げる。練った後にあんを包み、形を整えて再び蒸し上げる。なめらかで光沢のある仕上がりが特徴。
 白玉饅頭の起こりは幕末の天保のころ(1830〜1844)と言われる。本庄の六日町の宮永和助・シカ夫妻が鵜戸神宮の参拝の帰り、堀切峠の茶屋でいも団子を食べた。そのうまさに驚き、作り方を習って、六日町で工夫を重ねて作ったのが白玉饅頭と伝えられる。
 素朴なうまさはその後、宮崎方面でもしだいに評判となっていった。本庄は天領すなわち江戸幕府の直轄領である。大淀川を拠点に船舶での河川交易も活発で、多くの物資が宮崎、さらには上方(現在の大阪方面)を行き交い、六日町や十日町は和泉屋、桝屋などといった豪商が大きな店を構え、大変なにぎわいを見せていた。
 本庄稲荷として知られる釼柄(けんのつか)神社の例祭は旧暦2月初午(うま)と11月24日。当社は県内各地からの代参や、漁師たちが海上安全・大漁を祈願するなど稲荷信仰の拠点となっている。旧暦6月24日の夏祭り(現在は8月第1土、日曜日)には、近世上方から伝わったといわれる歌舞伎見立人形が特設舞台に飾られる。
 こうした祭りの日には県内各地から大勢の人が参拝に訪れた。チョコレートやケーキなど菓子類が現在のように潤沢ではない時代、白玉饅頭は訪れた人々を喜ばせたに違いない。多くの人が土産に持ち帰り、その味の評判は町内外に広く侵透していった。
若山 浩章
メモ
 1927(昭和2)年、当時の宮崎市長大迫元繁は、白玉饅頭を東京で紹介したところ、評判は上々だったという。宮永和助・シカのひ孫サワはその指導のため上京した。サワは作り方を家伝とせず、必要に応じ教えたという。こうした自由で開放的なやり方が、新たな工夫を生み、白玉饅頭の味を高めることになった。開放的な雰囲気は天領本庄の伝統であったのだろう。





白玉饅頭の写真
素朴なうまさで
郷土菓子として定着

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