みやざきの百一人ロゴ 安井息軒(やすいそっけん)1799(寛政11)年〜1876(明治9)年


●将軍直参の大儒学者
 息軒の父・滄洲(そうしゅう)も優れた儒学者であった。その教育を受けて、幼少の時から勉学に努めた。
 息軒は通称「仲平」と呼ばれた。仲平の生い立ちや、成年に達してから大阪に出ての刻苦勉励の様子、やがて江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学んだ時期の修学力行ぶりは、明治の文豪・森鴎外の「安井夫人」に親しみ深く描かれている。
 江戸の自室に「今は音を忍が岡の時鳥いつか雲井のよそに名告らむ」と書いて張っていた。いつか天下に名を知られる人間になってやるぞというひそかな決意は、まさに青雲の志そのものである。
 28歳で藩主・伊東祐相(すけとも)の侍読(藩主に講義する人)となり、翌年帰国して夫人を迎えた。
 藩主に仕える傍ら父・滄洲を助けて、清武の明教堂で子弟の教育にあたったが、1831(天保2)年、滄洲が藩校振徳堂総裁となったので、飫肥に移ってその教育に従事した。
 1838(天保9)年、藩務を辞して江戸に上り翌年「三計塾」を開いた。以後37年間に2,000人の塾生を育てた。江戸に遊学する諸藩の学徒で、他の塾に物足りなくなった者は、三計塾に入ったと伝えられている。明治の歴史に名を残した谷干城(たてき)、品川弥二郎、陸奥宗光、三好退蔵などはこの塾生であった。
 藩主に進言して、飫肥藩内で種痘を実施したり、養老の礼を行ったりした。養老の礼は、75歳以上の高齢者を藩主が招待して、懇切に酒肴でもてなした。1862(文久2)年、息軒は将軍直参の儒学者となったが、幕府の余命はその後5年しかなかった。(甲斐 亮典)
メモ
◎安井息軒旧宅
 清武町中野に保存されている安井息軒旧宅。旧宅としては、本県唯一の国指定史跡である。庭園の一隅に「安井息軒先生誕生地」の記念碑がある。題字は徳川家達(いえさと)の筆跡。家達は徳川慶喜の水戸退去後に、徳川宗家を継いだ人。後に貴族院議長となった。
 碑文の作者は、息軒の孫・安井小太郎である。書は最後の藩主・伊東祐帰(すけより)の嫡男・祐弘の筆。1929(昭和4)年「半九公園」の完成時に建てられた。「半九」とは、息軒の号で「百里を行く者は九十里をもって半ばとする」の意味である。


安井息軒の写真
安井 息軒
(郷土先覚者展図録より)







安井息軒旧宅の写真
生誕地に移転、復元された安井息軒の旧宅。 国の指定史跡

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