みやざきの百一人ロゴ 秋月種樹(あきづきたねたつ)1833(天保4)年〜1904(明治37)年


●明治維新の大業貢献
 時は文久2(1862)年師走のこと、種樹が幕府の学問所奉行に任命されたとの一報が高鍋城下に届いた。教育の改草は幕政の急務であり、代々の林家に代わって学問所を取り仕切ることになった。小藩出身、29歳の若さでの抜てきは異例であった。それほどまでに種樹の学問は、世に評価されていたのである。
 それもそのはず、彼は当時の最も優れた儒学者・安井息軒や塩谷宕陰(しおのやとういん)らに学び、小笠原明山(唐津藩)・本田静山(田中藩)とともに、学問界の“三公子”と称され知られていたのである。この頃、種樹は楽山(らくざん)と号した。
 彼は昌平黌(しょうへいこう)教授に、かつての恩師、息軒・宕陰・芳野金陵(当時、三博士と称えられた)を迎え、改革の第1歩を踏み出した。翌文久3年には若年寄格となり、将軍徳川家茂(いえもち)の侍読を兼ねた。これまた、外様(とざま)大名の一子としては、前代未聞のことであった。
 徳川慶喜(よしのぶ)が大政を奉還して間もなく、彼は明治政府の参与となり、明治天皇の侍読となって学問を講義した。さらに公議所議長を務め、版籍奉還、廃藩置県など維新の大業成就に尽力した。1869(明治2)年に大学大監の命を受け、翌年には大学校・小学校規則を発布、今日の学校制度の礎(いしずえ)を築いた。1882(明治15年)年、高鍋に戻り10年間千歳亭(せんざいてい)に悠々自適の生活を送った。のち病を得て高木兼寛の勧めにより、神東川県片瀬に転地療養、ここが終えんの地となった。行年、72歳であった。(山口 保明)
メモ
◎すべてに通じた風流人
 種樹は雅号を千歳叟(そう)・古香などと称した。種樹を診療したこともある眼科医杉田作郎は、「貴人(あてびと)を誘ひ出しけり夏の月」の一句を種樹に届けた。
 すると古香名の朱筆で、「私などコンナお客を待っているや久し。一向来てくれぬので閉口しています。チトお誘いを待つ」といったユーモアたっぷりの句評。
 1895(明治28)年、杉田が眼科修業に上京するとき、種樹は、「埋木になるな錦を着た紅葉」の一句を贈り激励した。
 杉田は種樹について「公的な偉さを別にして、すぐれた学者であり、極めて庶民的な文化人であったことや、画家としても詩人・俳人としても一流の人であったことの方がわたしには大変興味がある」(「直翁夜話」)と語っている。種樹の風雅人としての面目躍如、人間の大きさが伝わってくる。


秋月種樹の写真
秋月 種樹







千歳亭全景の写真
1882年、地元高鍋に戻り、悠々自適の生活を送った千歳亭全景

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