みやざきの百一人ロゴ 小林乾一郎(こばやしけんいちろう)1845(弘化2)年〜1929(昭和4)年


●県北の民有林を守る
 延岡藩士の家に生まれ、藩校で学んだ。19歳のとき藩費留学生として長崎に遊学し、漢学・英語を学び、砲術の修得も目指した。1869(明治2)年にも留学生として東京の大学南校(東京大学の前身)に学び、後、横浜修文館の英語教師となる。そこで陸奥宗光や星享(ほしとおる)を知る。1873(同6)年になると地元から請われて帰郷し、「延岡社学」(同8年に私立亮天社と改称)の英語教師となる。以来6年間、青年・女子教育を推進した。その間におこった西南戦争では、順逆をただす手紙を県令大山綱良に送った。折からの自由民権運動の広がりの中で彼は考えるところがあり、亮天社をやめて政治家を志した。1881(同14)年には星のすすめで自由党に入り、全国各地の大会にも参加した。
 そのころ民有林国有化の動きがあり、このことを察知した彼は1885(同18)年、反対運動の先頭に立って、県北民有林の確保のために奔走した。翌年には宮崎県会議員に当選し、同志5人で「宮崎自由党」を組織した。27人の定数では少数からの出発であり常に多数の圧迫を受けたが、しだいに同志も増え副議長を経て、1890(同23)年から2年間議長を務めた。小林は県会では川越進と並ぶ名議長として名高い。県議を6年務めた後、1892(同25)年には衆議院議員に当選し、以来10年余中央政界で活躍した。その後1899(同32)年から旧藩主内藤家の顧問となり、同家が主導し進展させてきた教育に再度携わり、さらに日平(ひびら)銅山(現北方町)の経営に笠原鷲太郎を招くなど県北の発展に尽くした。天外と号し、漢詩や書画に親しみ梅の絵を得意とした。(徳永 孝一)
メモ
◎民衆の先頭に立つ
 1882(明治15)年に内務省から官林を引き継いだ農商務省山林局は、台帳のなかに、官・民両有のものがあることを見つけ再調査を始めた。調査は、旧来の住民の慣行や林業者の生活まで配慮せず、強引に官林に編入したので、多くの山林地主が不満を持った。旧延岡藩の民有林は、1880(同13)年には正式な民有林に認められていた。この権力的なやり方に憤りを感じた小林は1885(同18)年、臼杵郡の民有林を守るため、県議の説得や田辺山林局長(元宮崎県知事)への面会を行ったものの、情勢は不利となり、そのため臼杵地方は物情騒然となった。たまたま農商務大臣の更迭があり、政府も願いをききいれたので、運動の目的が達成された。


小林乾一郎の写真
小林 乾一郎







小林の胸像写真
愛宕山の中腹に建てられた小林の胸像

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