みやざきの百一人ロゴ 三島通庸(みしまみちつね)1835(天保6)年〜1888(明治21)年


●庄内・三股地域繁栄に尽くした
 旧薩摩藩士。幕末動乱期の寺田屋事件にもかかわり、戊辰(ぼしん)戦争では各地を転戦した。1869(明治2)年に旧都城領主島津元丸は鹿児島へ移住し、代わって同年9月に三島が都城地頭に抜てきされて着任、広小路の商家を役宅とした。しかし旧領主を慕う領民が排斥したために、彼はわずか24日で鹿児島に引き揚げ、都城地域の調査研究に力を注ぎ、三郷分割と農耕地を総割換えする大御支配の2大方針を画策した。
 三郷分割は、山田・西岳など10カ村を上荘内郷、郡元・安久など15カ村を下荘内郷、石寺村を梶山郷とし、同年11月に知藩事から布告させた。さらに翌年3月には下荘内郷のうち5カ村を割き梶山郷に編入、9月に梶山郷・勝同郷を併合して下三俣郷と称し、改めて三島は上荘内・下三俣両郷の地頭となった。大御支配は、1年4カ月をかけて綿密に調査し、各戸に田2反2畝・畑3反1畝25歩を配分した。
 三島は、安永村(現都城市庄内町)を中心に建設手腕を振るい、71(明治4)年11月鹿児島へ帰るまでの間に地頭として両郷の経営に尽力した。注目される業績としては住宅街地の建設、鹿児島などから商人を集めての町づくり、高岡・国分・都城・小林に通じる道路や安永川の堤防修築、母智丘神社の建立、そのほか産業・教育・兵制の整備などが挙げられる。地域の人々は彼の業績をたたえ、1909(明治42)年に顕彰碑を庄内小学校内に建てている。三島はその後、各県の県令や警視総監としても活躍した。特に福島県令であった82(明治15)年会津道路開削をめぐって県会と激しく争った事件は有名である。(藤井 美智雄)
メモ
◎新任地頭の門標斬り事件
 版籍奉還の後、旧薩摩藩主であった島津忠義は知藩事となり、政府の施策にもとづいて藩政改革を行った。
 旧来私領として分知していた地域を直轄地に入れて、新たに地頭を置いた。都城も同様に、三島通庸が地頭として済陽(わたよう)という商家屋敷に着いた。その門柱には幅6寸、長さ5尺の「地頭標札」が掲げられた。彼は赴任にあたり、都城開発を期していたが、意外に住民の多くは歓迎せず、むしろ冷淡であった。学者の高野安恒は名文をつづって「旧主元丸を地頭に」と切々と訴えたが、三島はこれを無視した。
 そのようなときに1869(明治2)年9月11日の夜半、地頭役宅の大きな門標札を何者かが切り、溝に投げ捨てた。
 翌日徹底的に取り調べたが、ついに要領を得なかった。一説には、三島地頭自ら門標を破壊して、憤まんを晴らしたといううわさもあった。


三島通庸の写真
壮年期に内務官僚となってからの三島通庸







母智丘神社の写真
三島が1870(明治3)年に建立した母智丘神社。民治のかなめは敬神にありとの信念で郷社とし、豊受大神を奉祀してある。

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