みやざきの百一人ロゴ 三好退蔵(みよしたいぞう)1845(弘化2)年〜1908(明治41)年


●明治の法曹界の代表格
 高鍋藩士の家に生まれ、8歳で明倫堂教授日高耳水に学んだ。その後上京して安井息軒の門下生となり、明治維新に際しては藩主を補佐し、1869(明治2)年には政府の行政官となった。翌年には高鍋藩の少参事となり、廃藩置県後は秋月種樹の援助で1,000ドルをもってロンドンに遊学した。退蔵の国際的な感覚と判断力は、ヨーロッパ遊学のなかで身につけたものである。帰国後司法省の判事となり、1877(同10)年の西南戦争では大審院の判事として状況を視察した。
 その後、横浜裁判所長や司法大書記官を経て1882(同15)年には伊藤博文の憲法調査のためヨーロッパに随行。司法制度調査にあたること3年、帰国後は司法次官となる。3度目のヨーロッパ遊学中の88(同21)年、大審院検事総長に任命され、6年余務めた。その間、ロシア皇太子への傷害事件が大津で発生した。この事件ではどの法律を用するかが問題となった。政府部内では、皇室に対する罰則を適用し、犯人の死刑に傾いた。
 しかし、退蔵は検事総長ながら、児島惟謙(これかた)大審院長(今で言えば最高裁判所長官に当たる)と連絡を取りながら、司法大臣に法の国際的常識を進言した。その結果、犯人は無期懲役となり無事難局を切り抜けた。93(同26)年には大審院長となり3年7カ月務めた。この後、在野の弁護士となり、さらに東京弁護士会長に推された。その間、足尾鉱毒問題がおこり、控訴審では民衆請願の正しいことや鉱毒問題の根本的解決を求めるなど、住民側に立つ堂々の弁論を展開した。退蔵は儒学的な教養とヨーロッパ流の近代的教養を身に付けた敬けんなキリスト教信仰者であった。郷里高鍋にも思いをはせ、慈善事業や後輩の指導にも関心を寄せた。(徳永 孝一)
メモ
◎西洋式生活
 退蔵は1888(同21)年の3回目のヨーロッパ遊学に際し、自宅を売り払った8,000円を費用にあて、すよ子夫人とともに出発した。夫妻がパリに到着すると夫人が2女を出産。アジア、アフリカ、ヨーロッパを経由して生まれたので、三洲子(みすこ)と名付けた。さらにベルリン滞在中にも3女が生まれ、リン子と名付けている。いかにも退蔵らしい命名であった。一方、帰国後も生活の中にヨーロッパ方式を取り入れた。ところが母はストーブよりこたつを好み、夫人はいすより席座を便利とした。あこがれの西洋式生活は崩れ去ったが、世界に思いをはせた退蔵と現実の家庭生活がしのばれる。


三好退蔵の写真
三好 退蔵







大審院の写真
三好退蔵が院長となった当時の大審院

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