みやざきの百一人ロゴ 平部きょう南(ひらべきょうなん)1815(文化12)年〜1890(明治23)年


●維新後の飫肥藩指導
 外字南は現在の清武町に生まれた。初め良介、後に俊良といった。少年のころ、安井滄洲(そうしゅう)・息軒父子に出会ってその教えを受けた。外字南の向学心は、この時に深く根ざしたものと思われる。1833(天保4)年、師・息軒について江戸に登り、昌平黌(しょうへいこう)の儒学者・古賀庵(どうあん)に学んだ。江戸滞在中に多くの人材に出会って啓発され、学問にも社会にも目を開いた。
 翌年帰国して藩校振徳堂の教壇に立った。幕末の1867(慶応3)年、飫肥藩の家老となり、明治維新の変革期を乗り越え、維新直後には飫肥藩大参事となって政務を指導した。
 1874(明治7)年、県から地誌編集を委嘱され、8年の歳月をかけて『日向地誌』を完成した。原著は和とじ56巻、1929(昭和4)年に刊行された活字本では、1,620ページの大著である。本県の地理、歴史を研究する人々にとって、今も不可欠の書である。
 この他、『日向纂記(さんき)・六鄰荘(ろくりんそう)日誌』などの著述は、本県の歴史研究にとって貴重な史料となっている。外字南は、息軒を終生の師として尊敬した。1876(明治9)年9月、息軒の訃報(ふほう)に接した外字南は、「誼(よしみ)は師弟であったが、恩は父子同然であった」…「職務で上京する度に、先生の宅にひんぱんに出入りして、飽くまでその論説を聞くことが出来た。今日以後、誰に教え受けたらよいのか」と六鄰荘日誌に記している。まさに天を仰いで師・息軒の逝去を悲しみかつ惜しんだ。3人の息子も次々に若死して、跡継ぎとして期待した孫・俊彦をも西南戦争で失った。しかし大著述は完成した。
(甲斐 亮典)
メモ
◎「日向地誌」
 1884(明治17)年に完成した。当時の県内5郡376カ町村について、その沿革、管轄、地勢、地味、戸数、人数、牛馬、山、川、社寺、陵墓、古跡、学校、物産などことごとく記録されている。
 本県に関する百科事典とも言えるものである。1929(昭和4)年に初版本が発刊されたが、希少な本となってしまい「幻の大著」と云われていたが、1977(昭和52)年、待望の復刻版が出された。原本は、県立図書館に保存されている。


平部きょう南の写真
平部 外字







『日向地誌』原本の写真
県立図書館に保存されている『日向地誌』原本

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