みやざきの百一人ロゴ 岩切門二(いわきりもんじ)1860(万延元)年〜1896(明治29)年


●分県運動に力尽くす
 宮崎県にとって分県運動は、後の県政に大きな影響を与えた事件であった。1873(明治6)年1月に誕生した宮崎県は、1876(同9)年8月、鹿児島県に合併されるが、この鹿児島県から分離しようというのが分県運動であった。
 岩切門二はこの政治運動に参加、1883(同16)年5月の宮崎県再置に貢献した1人であった。運動中には弾劾演説で、鹿児島県令渡辺千秋を罵倒(ばとう)し検挙されたこともあるという。分県の議決をした同年2月の鹿児島県通常県会では議長川越進のもと書記長となった。
 再置県後の門二の活動は、新聞の刊行と政党の結成へと向かう。1888(同21)年2月15日宮崎県初の新聞『宮崎新報』を発刊。門二はその主筆となった。一方、1889(同22)年3月の旧九州改進党の影響を受けた日州同志会の結成に参加。これが宮崎県の政党形成の大きなきっかけとなった。
 しかし、当時の全国的な大同団結運動の影響を受け、同志会はこれに同調する派としない派に分裂。門二は大同派の中心になり、同年7月大同倶楽部を結成する。それを機に『宮崎新報』も大同倶楽部の機関紙的な性格をもつようになった。
 1890(同23)年7月、日州大同倶楽部は解散し、倶楽部員は随意立憲自由党に加入することになり門二もこれに参加している。自由党県支部が正式に結成されるのは同26年7月であるが、門二はこの時常議員となった。1894(同27)年、第3回総選挙において宮崎1区から立候補し当選、衆議院議員となったが1896(同29)年病没。享年37歳であった。(若山 浩章)
メモ
◎再置県後の門二の苦悩
 1888(明治21)年の『宮崎新報』に門二は「日州大同団結」という論文を書き(明治27年10月6・9日の同新聞に再録)、鹿児島県からの分離後6年たつのに、県下の有志者が地元に固執しすぎていると嘆き、「日州大同団結」を呼びかけた。
 当時延岡には亮大社、高鍋には高鍋郷友会、佐土原・広瀬には教育衛生会、飫肥には相愛会、東西北諸県郡には郷友会というように各地に政社が生まれ、個々に活動していた。再置県後、地域の利害が再燃し、その現実に門二は苦悩することになった。


岩切門二の写真
岩切 門二







宮崎新報の写真
岩切がたずさわった『宮崎新報』(県立図書館所蔵)

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