みやざきの百一人ロゴ 堤長發(つつみながあき)1849(嘉永2)年〜1927(昭和2)年


●殖産興業に情熱注ぐ
 高鍋藩士鈴木百助の3男として生まれ、堤長善の養子となった。8歳で藩校に学び、14歳で養父に従い江戸に出て、幕府学問所奉行の秋月種樹から儒学、漢詩文を教わった。以来「私日記」の随所に漢詩文がみられ、後には会話のようにすらすらできたという。16歳のとき帰郷。18歳で結婚。藩の兵事の仕事にあたった。21歳になった1869(明治2)年、念願の修学の機会に恵まれ、東京に遊学した。ここでは日本の古典と漢学を学ぶ。在籍は14カ月であった。その後、藩の推挙で敬神尊皇を本旨とする大教宣布の宣教掛となり、やむなく帰郷した。
 73(同6)年からは宮崎県の県官として、おもに県内小学校創設に携わった。その後、在京有志の計らいで上京し千葉県官となるが、西南戦争のとき、師秋月種樹の求めに応じ、旧藩主家の財政整理にかかわったため、わずか4カ月で退官した。30歳となった78(同11)年、在京有志に促されて再度上京し、大蔵省銀行課に10年、東京控訴院書記官として5年勤めた。この間、公務で全国を視察し経済の勉強を怠らず、一方では禅を学び、高鍋郷友との親ぼくを深めた。92(同25)年になると、郷土の要請で帰郷し児湯郡郡長として地域発展につくした。98(同31)年には国策として設立された宮崎農工銀行の頭取として迎えられ、以来21年余り、遅れていた本県の産業の発展に尽くした功績は大きい。分県運動では川越進らを助け、宮崎県の鉄道敷設運動ではその中心となった。さらに石井十次の孤児救済事業を支え、子弟の教育に意を注いだ。禅、儒学・漢詩文を学んだ教養人として、愛郷一念のもと誠心誠意ふるさとに生きた人である。(徳永 孝一)
メモ
◎「誠」の実践
 長發は、ふろに行く時でも、必ず養父の部屋の板縁に両手をつき「ふろにいって参ります」と大声であいさつした。また帰った時も同様に「ただ今帰りました」とあいさつをしたという(「堤長發小伝」)。
 すべてにこの調子で、たとえ時勢に疎い年寄だからといって、決していい加減にしておくことはなかった。
 また親せきはもとより長年の友人を大切にし、婿や嫁のやりとり、子供の学校教育、先祖の祭り、そのほか面倒で骨の折れることなどに行き届いた世話をした。これは公的な仕事でも同じであった。このように藩校の目指した「孝道」の思想を実践した「武士道の生んだ最後の人」(同)である。


堤長發の写真
堤 長發







宮崎農工銀行の写真
堤が頭取として迎えられた宮崎農工銀行

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