みやざきの百一人ロゴ 福島邦成(ふくしまくになり)1819(文政2)年〜1898(明治31)年


●私費を投じ橘橋を架設
 宮崎市の中央部を流れる大淀川に架かる橘橋は今もなお観光宮崎のシンボルとして、また陸上交通の要所として有名である。1880(明治13)年宮崎郡太田村中村町(現、宮崎市中村西1丁目)の医師福島邦成が行政に頼る事なく私費を投じて架設し、自らが橘橋と名付けた橋である。
 邦成は1819(文政2)年、延岡藩の飛び地宮崎郡の中村町に生まれ、17歳から8年間藩費によって当時の先駆者に儒学・医学を学んだ。1850(嘉永3)年には若山健海(若山牧水の祖父)とともに日向国で最初の牛痘接種を行い、その後中村町に病院と医学所を造るなど、邦成は医学の面でも宮崎の近代化に貢献した人物であった。
 1873(明治6)年から再び2年間にわたり東京に暮らし、日本の近代化を経験した邦成は蒸気船による日向航路をひらくとともに、街づくりの進まない宮崎のために独力私費による大淀川架橋を決意した。
 数年を経て許可され完成した橘橋であったが、邦成はそれを仮橋とし、いずれは丈夫な橋を作るためにも「うどん1杯程度の橋賃」を取ったので「退廃(邦成のこと)は大きな箸(橋)で飯を食い」と皮肉る人もいた。
 実際には橘橋事業による赤字は現在の5,000万円を超えていたが、宮崎県再置翌年の1884(明治17)年邦成は修理用木材とともに橘橋を県に無償で寄付した。
 邦成は医学・教育・街づくりなど宮崎の近代化に尽くした人物であったが残念なことにそれを理解されることはなく1898(明治31)年に没した。(田代 学)
メモ
◎橘橋
 現在の橘橋の親柱の裏側は現橋を6代目として記されている。しかし邦成は明治13年4月と10月の2回架橋し、昭和2年架設の仮橋を含めると正確には現橋は8代目とするのが妥当である。
◎牛痘接種
 当時の国民病といわれた天然痘の予防接種。邦成は健海とともにまずはお互いの息子を最初に結局261名に牛痘接種を行った。その種痘人名録は現在牧水記念館に保存してある。


福島邦成の写真
1870(明治3)年3月に上海で撮った福島邦成のポートレイト







初代橘橋の写真
1880(明治13)年現在の谷川町付近から撮影した架橋の初代橘橋。

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