みやざきの百一人ロゴ 鈴木馬左也(すずきまさや)1861(文久元)年〜1922(大正11)年


●住友財閥発展に尽力
 高鍋町筏(いかだ)小路に生まれた。幼名は犢郎(こうしろう)。父は高鍋藩家老秋月種節(たねよ)。母は鈴木百助の娘・久。父種節は西南戦争で西南軍を批判し旧藩倉に幽閉されて没した。
 馬左也は東京帝国大学卒業後、はじめ官僚の道をえらび内務省に入り、各県書記官を経て、農商務省参事官を務めた。1896(明治29)年、住友家に招かれ、住友本店の副支配人となった。次いで別子鉱業所の支配人となり、おりしも社会問題化していた同銅山の煙害問題では、製錬所を四阪島に移し、その近代化をはかった。1904(同37)年、第3代住友総理事となり、住友の経営を銅山を軸にして鉱業、金属工業、林業、化学工業、機械、電力、銀行、倉庫などの総合的な経営組織としてつくりあげた。1921(大正10)年には総本店を住友合資会社にして、全事業を統括し、わが国の代表的な財閥の1つに成長させた。
 とくに本県との関係では、初代総理の広瀬宰平(さいへい)が着目した本県の資源開発、椎葉と富高(現日向市)を結ぶ耳川筋の林業と電源開発を重視し、以後同社がこの地域の開発に深くかかわることになった。後年のことではあるが諸塚−椎葉間の100万円道路はその具体的なあかしである。また東北大学鉄鋼研究所、大阪府立図書館の創設などにも貢献している。
 1922(同11)年病気のため辞任し、同年兵庫県御影で没した。62歳であった。高鍋町竜雲寺墓地に葬られた。(永井 哲雄)
メモ
◎高鍋の「四哲」
 水筑(みづき)家をついだ長兄弦太郎(1844〜1861)は、1867(慶応3)年、幕史に追われていた薩摩藩士を助けたことで捕らえられ、出獄後間もなく病死した。2男黒水長平(1852〜1915)は地方の産業育成、とくに養蚕業の育成に生涯をささげ、児湯郡地方養蚕業の礎を築いた。また石井十次の活動のよき理解者でもあった。
 3男・秋月左都夫はオーストリア特命大使、教育界、読売新聞社長、京城日報社長を歴任した。その間、第一次世界大戦後のパリ講和会議では全権顧問をつとめ、太平洋戦争末期には、吉田茂らと早期の講和を図ったが、1945(昭和20)年6月戦争の行方を見ずに没した。4男が馬左也で鈴木家を継いだ。高鍋では彼ら4兄弟を「四哲」と呼んでいる。


鈴木馬左也の写真
鈴木 馬左也







真清閣の写真
鈴木馬左也の別邸だった真清閣。現在は町有

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