みやざきの百一人ロゴ 永友宗年(ながともむねとし)1854(安政元)年〜1927(昭和2)年


●神社史資料を大成
 1869(明治2)年、高鍋藩校で名和大年(なわだいねん)に皇学(国学)を学び、藩から一人賄い(いまの奨学金)を受けた。5年後に上京し、文学博士井上頼圀(よりくに)に師事、皇学の研究を積み、東京や京都の神社に勤めた。1878(同11)年、国幣小社都農神社に奉仕した。西南戦争の時、都農を戦火から救った坂田莠(はぐさ)が宮司、文宗鷹が権宮司であった。
 まもなく請われて国幣中社宮崎宮(後官幣大社・神宮)の宮司に27歳の若さで任命された。都農村発足の89(同22)年5月1日、子爵秋月種繁宮司の後任として都農神社宮司に任命され、1927(昭和2)年に病気退職するまで38年間その任にあたった。
 その間、県内の神社の由緒を記した古文書の散逸を憂え、何とかそれらを書き残したいと念願し、古記録を現地に探し求めたり、古老の口碑などをまとめた。自筆稿本「日向国神祇史料」14巻がそれである。県内502社が郡別に整理され、神社界のみならず、貴重な史資料として現在も扱われている。
 84(同59)年宮崎神宮発行の「神武天皇論・宮崎神宮史」の序文には「本書の編さん記述にあたり頼るべき唯一の資料であった」とある。そのほか、古記録をあつめた自筆稿本の「日向雑記」(5巻)「続日向雑記」(4巻)「日向全書」(5巻)などがあり、いずれも置県100年記念「郷土の先覚者展」で展示された。和歌もよくし、宮内省例歌所寄人金子元臣を選者にし、都農神社献詠歌を主催していた。没後、従五位勲六等を授けられ、後任宮司には4男の永友宗清が任命された。(永友 元夫)
メモ
◎桜並木
 宮崎宮の官幣大社昇格運動にも奔走した。それが実現した後の1886(明治19)年8月、神宮から江平町までの道路の両側に自費で桜の植え付けをし、風致を増したいと願書を知事に提出している。「浮上する風景」(小野和道著)
 1929(昭和4)年3月、県立宮崎中学校(現大宮高校)卒業の富永武義氏は「現在のナギに植え替えられたのは1931年ごろで、私の在学中は学校前の通りを桜馬場と呼び、桜が残っていた」と証言している。
 古記録収集に強い影響を受けたのは井上頼圀・永友司(通称・宗義)であったという。


永友宗年の写真
永友 宗年







宮崎神宮の写真
永友が官幣大社昇格の運動に奔走した宮崎神宮

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