みやざきの百一人ロゴ C・A・クラーク1851(嘉永4)年〜1932(昭和7)年


●新しい生活文化紹介
 こよなく宮崎を愛し、新しい生活文化の数々を人々に紹介した米人宣教師、サイラス・A・クラークは、1851年、ニューヨーク州ダリエンの農家に生まれ、オハイオ州のオバリン大学で神学を学び、苦学して31歳で卒業。同学のハリエット・ギューリックと結婚した。
 やがて夫妻は異国での伝道を志して来日。夫人の兄の赴任地である熊本で、1年過ごした後の1892(明治25)年、宮崎市の広島通に移り住み、県内各地で神の教えを説いた。
 その際、当時としては珍しい鉄輪の自転車に乗り、幻灯機を使用したため、人々の話題をさらった。さらに1914(大正3)年、休暇で一時帰国した折り、県の出身者たちから自動車を贈られ、車体に「福音号」と白ペンキで書いて走り回り、これまた注目を浴びた。こうした異文化との出会いは、たいへんな驚きだったと、関係者は語っている。
 そればかりでなく、彼は幼稚園や日向訓盲院(後の県立盲学校)の開設、さらには生活改善にも取り組み、夫人もまた自宅を女学生ホームに解放して、英語や洋裁や西洋料理を教えるなど、幅広い社会奉仕活動に携わった。
 こうした献身と温かい人柄で、だれからも親しみ慕われたクラークは、1924(大正13)年、病でハリエットを亡くし、3年後の定年を機に宮崎を去って帰国。32(昭和7)年、サンフランシスコ郊外で、81歳の生涯を終える。そしてその遺骨は遺言により、愛妻が眠る宮崎市の春の山墓地に埋葬された。第2のふるさとを愛し続けた生涯を記念し、宮崎市老松通の児童公園には、在りし日の彼をしのぶ銅像が建てられている。(原田 解)
メモ
◎「日向のからす」
 クラークは仕事に対して熱心で真面目な反面、なかなかのユーモリストで、「日向のからすはよほど私が好きなようで、どこに行っても、クラーク、クラークと鳴きかけてくれる」など、周囲の人たちによくジョークを飛ばして笑わせていた。また夫人も明るい性格の人だった。
 こうした人柄の彼が宮崎を離れ、故郷のアメリカヘ旅立つ日、宮崎駅には700人もの見送人が集まり、別れを惜しんだ。
 帰国後の昭和3年には、地元紙の「宮崎時事新聞」が、「クラーク師近況」という、続きものの現地レポートを連載している。これらからクラークと県民との、心の触れ合いが窺われる。また郷土作家の川添同(故人)は、「福音号」がもうもうと砂煙りを上げて、青島街道を走るのを、興奮しながら追っかけたものだと、大正期の子供時代を振り返り語っている。


C・A・クラークの写真
C・A・クラーク







クラークの銅像の写真
宮崎市老松通の児童公園に建っているクラークの銅像

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