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●分県運動の功労者 |
飫肥藩士の家に生まれ、清武の郷校「明教堂」に学んだ。その後22歳で家を継ぎ、清武会所(今の役場)に勤めた。1872(明治5)年、加納の戸長となり、翌年新しく置かれた宮崎県の職員となった。1876(同9)年には、県が鹿児島県に強引に併合された。
1877(同10)年2月、西南戦争がおこると退職して、旧藩士とともに西郷軍に加わった。戦場では探偵係をつとめていたが、大分方面で「行方知れず」となって官軍に投降した。戦後再び県職員を経て1880(同13)年には那珂・宮崎郡から鹿児島県会議員に当選し、副議長や議長を務めた。
そのころ、全国的に「国会開設」請願の運動が高まるなか、川越も同盟結成を積極的に呼びかけた。このことは鹿児島に人脈をつくることに役立ち、後の議会活動に好ましい結果をもたらした。一方、日向では、西南戦争の反省を踏まえ宮崎県再置を望む機運がいっきに盛りあがり、分県運動へと発展していった。
川越ら有志は、当時生まれていた政党に距離をおきながら「宮崎県再設置」の1点にしぼり運動をすすめたが、県や政府関係者らの反応は冷たかった。それでも川越らは同志とともに手弁当で東奔西走した。3年余、粘り強い運動はついに鹿児島県議会や政府要人を動かし、1883(同16)年、宮崎県再置に成功した。分県運動は本県近代史のなかで県民の最も熱く燃えた運動で、これまで置県後30年、50年、100年という節目には、県民挙げて先人の顕彰と記念行事が催されている。このあと、川越は宮崎郡長を5年余りつとめ県都宮崎の発展の基礎をつくった。1890(同23)年推されて衆院議員に当選し、わが国初めての国政の場に名を連ね、1912(大正元)年まで国政につくした。(徳永 孝一) |
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◎都城の決断 |
西南戦争では、数々の事業が大幅に後退した。そのため有志は鹿児島県からの分離独立の必要性を痛感し、再置請願を相談していたが、1880(同13)年に徳島が高知県から分離独立したことを聞いてはずみがついた。
動きを知った岩村県令は実現困難を理由に工作し、都城、小林を離脱させた。それでも小林は代表を送ってきたが、都城は署名はできないものの、日向国全体の利害にてらし成功を願っていることを川越に誓った。都城の決断は有志たちに勇気を与えその後の運動の大きな支えとなった。
川越は寡黙(かもく)の人であったが、いったん県会や請願の場に出ると、理路整然として雄弁を振るった。 |
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川越 進 |
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明治の初めから昭和の初めまでの宮崎県庁舎
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