みやざきの百一人ロゴ 浜砂重厚(はますなしげあつ)1856(安政3)年〜1931(昭和6)年


●記録写真家の草分け
 1877(明治10)年の西南戦争の折、米良戸長として活躍した浜砂重雄の長男として、現西米良村小川に生まれ、2年後に父親の隠居に伴い家督を相続した。
 その後、外国文化の移入口である長崎に遊学し、積極的に新しい知識や文化を吸収した。そういう好奇心の強い性格でもあった。写真術はその際に習得したものとも、後に宮崎市の写真師から、指導を受けたものとも言われている。
 帰村した彼は町村制実施により、1889(同22)年、33歳の若さで西米良村の初代村長に推される。
 温厚で誠実な人柄から村民に親しまれ、村長としての職責を果たし、惜しまれながら4年後に自由人となった。そして1900(同33)年にかねてから望んでいた、イギリス製の箱型カメラを購入し、さっそく山村の四季や、暮らしの様子を記録にとめた。
 これら数多くの乾板と箱型カメラは、現在小川民俗資料館に保存されている。
 その中には宮崎市に出かけて撮影した木橋時代の橘橋や繁華街だった上野町の町並み、それに石造りの郵便局など、大正から昭和初期にかけての貴重な写真が含まれている。
 アマチュア・カメラマンの草分けである浜砂重厚は、満州事変勃(ぼっ)発後の1931(昭和6)年12月30日、75歳の生涯を終えた。
 残された数々の作品は、県内で最も古い記録写真として、また優れた民俗資料として、各方面から高く評価されている。九州山地の奥深くに、時代を先取りした映像文化が存在していたことは、それを手掛けた浜砂の人生とともに、社会文化史の興味深い1ページといえよう。(原田 解)
メモ
◎よみがえった1世紀前の山村
 浜砂重厚の貴重な映像記録が、そのカメラ人生とともに、注目を集めるようになったのは、1967(昭和42)年4月、その死から36年後のことである。
 そのころ小川小学校では、地区の歴史や暮らしの変遷を保存するため、古い農機具や民具を集めていた。その中に関係者から寄贈された、古ぼけた箱型カメラと、数多くのガラス乾板があったのである。
 さっそくその乾板をプリントしたところ、山村の四季の風物や木材の搬出作業、消防団の訓練や村民の運動会、それに若い男女の風俗といった、リアルな映像がよみがえってきて、マスコミに取り上げられ、一躍話題になった。
◎明治33年11月に彼は普通写真術の修業証書を取得している。


浜砂重厚の写真
浜砂 重厚







箱型カメラとガラス乾板の写真
西米良村の小川民俗資料館に寄贈されている箱型カメラとガラス乾板

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