みやざきの百一人ロゴ 遠藤正(えんどうまさし)1853(嘉永6)年〜1928(昭和3)年


●近代教育振興に尽力
 明治新政府が公布した「学制」は、わが国近代教育制度のスタートであったが、一挙に理想を掲げたため、達成困難な課題でもあった。本県は西南戦争で県域が戦場となり、学校も西郷軍の屯(とん)所、弾薬所などになって、損害が大きかった。
 1883(明治16)年、宮崎県は鹿児島県から分離独立した。その当時、小学校の学齢者約5万9千人、その中の就学者約2万4千人、教師793人、その中の有資格者・訓導15人、準訓導4人というありさまであった。
 教育の振興はまず師範学校を創設して、教師を養成することが緊急の課題であった。この課題を一身に担って、見事に達成した人物が遠藤正である。1883(同16)年、本県学務課長となり、2年後に師範学校を開設、翌年学務課長と師範学校長を兼務した。1888(同21)年には県尋常中学校を開設して、その校長をも兼ねた。女性教師の養成にも意を尽くし、1907(同40)年師範学校女子部を開設した。
 この時、私有地5,181平方メートルを校地に寄付した。現在の宮崎公立大の辺りである。図書館の創設、教育会の結成など本県の教育施策は、皆この人によって成ったとされている。
 遠藤は磐城国・三巻藩(福島県三春町)に生まれ、藩の貢進士となって大学南校(後の東京大学)に学んだ。病気で中退したが、後に文部省に入って学務を担当している時、本県に招かれ学務課長となった。30歳の時であった。座右銘は「尽人事待天命」(人事を尽くして天命を待つ)であったといわれる。(甲斐 亮典)
メモ
◎宮崎県師範学校の設立
 1883(明治16)年、宮崎県は鹿児島県から分離独立した。翌年、県は師範学校設置願を文部省に提出した。そして1885(同18)年2月28日、宮崎県師範学校が開校した。初年度定員は男子70人、修業年限4年であった。鹿児島県では、すでに1876(同9)年に男子師範学校も女子師範学校も開設されていた。
 本県に師範学校女子部が開設されたのは1907(同40)年のことである。県教育会沿革史は「明治15、6年前後ニ於ケル吾ガ日州ノ初等教育ハ、学制未ダ普及セズ。各校教科書ノ統一ヲ欠キ、甚ダ混沌タル状況ナリキ。当時、有資格ノ教員ハ皆鹿児島師範学校ヲ卒業セルモノニシテ…」と書いている。スタートの遅れは大きかった。


遠藤正の写真
遠藤 正







宮崎県師範学校の写真
いまの宮崎公立大学校の敷地内にあった創立当時の宮崎県師範学校

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