みやざきの百一人ロゴ 磯貝一(いそがいはじめ)1871(明治4)年〜1947(昭和22)年


●講道館柔道を広める
 柔術の諸派が勝負を第一義とする風潮の中で、嘉納治五郎(かのうじごろう)は「術」を「道」に改め、心技一体の指標を掲げ講道館を創設した。18歳で延岡を後にした磯貝一は、海軍兵学校を目指したが受験に失敗、武門の出らしく生きる道を柔道に定め、1891(明治24)年10月講道館に入門した。21歳の時であった。これより逝去の前年に柔道界を引退するまで、50余年にわたり柔道一筋に歩き、講道館柔道の普及に努めた。
 1893(同26)年、嘉納の推薦で第三高等学校の柔道教師となり京都へ赴任、柔道教育に情熱を注いだ。翌年には講道館京都分場を開設、初代場長となった。いよいよ“関西の雄”としての活躍が始まる。25歳の時、第1回演武大会で岡山の近藤守太郎、群馬の大倉喜一を破り、翌年の武徳祭では戸張滝三郎に勝ち、全国に“磯貝一あり”との勇名をはせた。
 1899(同32)年、武徳会柔道教授に任命され、講道館柔道の命運を懸けて不遷流(ふせんりゅう)の達人田辺又右衛門と対戦するなど、その主座を確立していった。1904(同37)年には、父恒久も台北庁の柔道教授となり、親子ともども“柔の道”を歩くこととなった。
 1919(大正8)年、武道専門学校の主任教授となり、人格を大いに慕われて幾多の名選手を育てた。1936(昭和11)年、福岡市で開催の全日本東西対抗柔道大会では、磯貝率いる西軍が優勝、翌年最高段位の十段となった。1940(同15)年2月、宮崎神宮で行われた全日本武道大会東西対抗試合では、また磯貝の西軍が優勝。彼は審判員としても活躍、故郷へにしきを飾った。(山口 保明)
メモ
 1934(昭和9)年5月4、5日の両日、皇太子誕生を祝しての天覧武道大会は、新装の済寧館(さいねいかん)(東京)で開催。師の講道館長嘉納治五郎も列席していた。高齢を理由に磯貝は辞退したが、大会準備委員の懇請にこたえ出場を決意した。磯貝九段64歳。相手は永岡秀一九段59歳だった。
 特選模範乱取りといっても事実は互いに闘志を燃やす試合。磯貝は左手に永岡の右襟をつかみ、とっさに左襟もとって得意の横捨て身。永岡はさっと身をかわす。今度は永岡が体を捻り膝車を仕掛ける。磯貝は体を落とし防ぐ。
 両範士、守るも攻めるも神業の名人。満場は水をうったような静けさ。千変万化の技の妙をつくし乱取は続く。「それまで!」と山下義昭審判の声。両名は以前、1919(大正8)年2月にも講道館柔道大会において、まさしく柔道史に残る“名勝負”を展開したのだった。


磯貝一の写真
磯貝 一







磯貝生誕の地の写真
いまは取り壊されたが、かつて生家もあった磯貝生誕の地(延岡市)

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