若山牧水(わかやまぼくすい)1885(明治18)年〜1928(昭和3)年


●故郷と旅を愛した国民的歌人
 『万葉集』の時代から今日まで、数多くの短歌が作られてきた。その短歌作品の中で最も人口に膾炙(かいしゃ)している歌というとき、若山牧水の次の2首は必ずあげられる。
 幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ
 国ぞ今日も旅ゆく
 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも
 染まずただよふ
 名歌中の名歌である。難しい言葉は使われていず、イメージははっきりとして、内容は奥深く、調べは快いからである。20代の前半で牧水がこのような作を歌い得たことは驚くべきことである。
 牧水は東臼杵郡坪谷村(現東郷町坪谷)に生まれた。美しく豊かな坪谷の自然によって牧水の感性ははぐくまれたと言っていい。その幼少年時代のことはエッセー『おもひでの記』に詳しく記されている。その後、牧水は延岡中学(現延岡高校)、さらに早稲田大学で学び、歌人としての本格的な活動を始めた。そして、1910(明治43)年に出版した歌集『別離』が高い評価を得て、国民的歌人となった。冒頭の「幾山河」「白鳥は」の2首もこの歌集に収められている。※
 牧水はその後、恋を歌い、酒を歌い、旅を歌って多くの秀作を残しているが、特に父の病気のために帰郷したときの作をまとめた1913(大正2)年の歌集『みなかみ』は口語や自由律を用いて画期的な歌集である。
 1920(同9)年以降は静岡県沼津に住んだ。しかし、牧水の心にはつねに故郷日向があった。その証拠に多くの故郷回想の歌がある。(伊藤 一彦)
(※注 「幾山河」「白鳥は」の2首は歌集『海の聲』から自選により歌集『別離』に納められたものです。(補注:宮崎県))
メモ
◎牧水の父と母
 牧水の生いたちを知るのに、牧水自らが書いた『おもひでの記』が参考になる。「坪谷村」「祖父の事」「父の事」「母の事」などからなっている。
 その中で医師の父立蔵については「その道の技能は村ばかりでなく、近郷の者を心服せしむるに十分であった。一点の邪気を持たぬ、情けに厚い人であったが、惜しいかな意志が極めて弱かった」と書いている。
 母マキについては、歯痛で自分が泣いていたときの思い出として「母は為かけた仕事を捨てておいて私を背に負ひながら釣竿を提げて渓へ降りて行った。さうして何か彼か断えず私に話しかけながら岩から岩を伝って小さな魚を釣って呉れた」ことなどを記している。
 恵まれた家庭で育った牧水である。
◎若山牧水賞の創設
 平成8年牧水の業績を永く顕彰するため、短歌文学の分野で功績を挙げた者に、賞を贈ることになった。


若山牧水の写真
若山 牧水







生家の写真
東郷町坪谷にある牧水の生家。訪れる人が多い

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