有吉忠一(ありよしちゅういち)1873(明治6)年〜1947(昭和22)年


●鉄道と港湾一体開発
 京都府出身の有吉忠一は、内務省に入り、千葉県知事、朝鮮総督府総務部長官を経て、1911(明治44)年に宮崎県知事に任命された。赴任後、飫肥−油津間と宮崎−妻間の県営鉄道敷設、細島・油津・内海港の改修、二原(現小林市)・高木原(現都城市)・薩摩原(現東諸県郡国富町)の開田給水事業など、県主導の経済政策を実施した。そして、鉄道は国有化を前提として港湾と一体化させて開発するなど、将来の見通しを重視して取り組んだ。また、経済発展の基礎をつくるため、「町村是」(後に「町村治要綱」となる)の作成を奨励し、さまざまな経済事業を通じて、日豊線開通後にみられる宮崎県の発展の土台づくりを行った。
 人材発掘の意味から、人物・団体を顕彰する『宮崎県嘉績誌』を作成し、さらに宮崎県の歴史書編さんを企画(後に『日向国史』として完成)、財団法人宮崎県奨学会の設立を許可するなど、教育・文化事業も行った。諸事業の成否は「人」で決まると考え、有能な人材の育成に力を注いだ。
 また、1912(大正元)年から西都原古墳の発掘調査を実施した。黒板勝美・喜田貞吉ら当時の第1級の研究者を招き、6回にわたって調査を行った。日本で初めての学究的発掘調査であり、申告祭を実施したり、調査報告書を作成するなど、以後の調査の先例をつくった。
 有吉は1915(同4)年に神奈川県知事に任命されて宮崎県を去った後も政治家として活躍し、1930(昭和5)年に勅せん貴族院議員になった。(籾木 郁朗)
メモ
 一説には持病の療養のため宮崎へ来たともいわれている有吉は、県民の生活や各地の実情を知るため積極的に県内視察を行った。そして、県内を回りながら、交通網整備の必要性を痛感した。
 鉄道敷設直後、乗客数が予想より少なく採算割れになった。そこで次郎ケ別府駅(現日向住吉駅)から住吉浜まで人車鉄道を引き、格納庫に飛行機などを展示した。県民に鉄道を使って見に来るよう宣伝し、自らも訪れ乗客数の増加をねらった。
 県民に目をむけた政治を展開した有吉に対して、離任時には「攀轅余情(はんえんよじょう)」という送別の冊子が作られるなど、各界の人々が功績をたたえ、離任を惜しんだ。


有吉忠一の写真
有吉 忠一







大正時代の宮崎駅の写真
大正時代の宮崎駅(写真提供:石川春海氏)

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