内藤英子(ないとうひでこ)1873(明治6)年〜1925(大正14)年


●延岡女子教育の「母」
 延岡藩最後の藩主内藤政挙(まさたか)は、伝統を重んじ文武両道の興隆に力を尽くした。ことに育英事業に意を注ぎ、近代教育確立のためには、まず学校を設立し啓発することが第1と考え、種々の施策を講じた。
 女子教育に着眼し、延岡女児教育舎を、さらに私立延岡高等女学校を設けて人材育成に当たった。その事業にともに協調し、情熱を傾けたのが夫人の英子であった。学校の状況を視察して語り合う2人の姿は、周囲に大きな感銘を与えたという。英子は延岡女子教育の“母なる存在”であった。
 彼女は京都生まれ、華族女学校に学び、同校の学監・教授の下田歌子に愛され、終生の師として導きを受けた。歌子は“明治の紫式部”と称されたほどの歌人で、英子は教育の在り方と和歌の道を学んだ。良き師に巡りあった彼女は、師の著した『子女教養全書』などに学ぶ傍ら、卒業の後も歌稿を送るなどして、交流はますます深まった。
 英子は東京の高松家に嫁したが不縁となり、1906(明治39)年、夫人と死別していた政挙と再婚、延岡で式を挙げた。英子はこの時33歳であった。政挙も詩文をよくし、相携えて産業の育成、教育の振興に努めた。元来英子は控えめな性格で、日常の会合には姿を見せなかったが、女子教育に関しては別で、延岡高等女学校の「藤蔭会」会長に就くなど晩年まで情熱を燃やし続けた。
 1921(大正10)年、恩師歌子を延岡に迎え感激の再会を果たした。これからしばらくして英子は体の変調を訴え、「目ざむれば二人の子らも背の君もうれひ顔して枕辺にあり」と詠み、この世を去った。行年53歳であった。(山口 保明)
メモ
 春秋の友とみきりの松風の千代のしらべは君のみやきく
 16年ぶりの再会を果たした歌子は、内藤邸滞在中に英子の歌稿に目を通し、歌集の出版を勧めた。しかし、英子は世に出すには未熟であると固辞した。いつか出版の日の来ることを願っている恩師の心を知りながら、彼女は世を去った。
 歌子は生前の英子の生き方をしのびつつ編集に着手、1年忌に遺歌集『撫子(なでしこ)の露』を刊行。和綴(と)じ本で表紙に撫子の絵を配し、386首が収められている。歌子の追悼歌は
 言の葉のときはのかげに残りけり
   惜しくも散りし撫子の露
 延岡滞在中、歌子は政挙・英子夫妻の案内で延岡高等女学校を視察。予定にない教師と生徒を対象にした講演を行うなど、その教育への情熱にこたえた。英子の生涯のうちで最も楽しく充実した時であった。
 ちなみに、政挙は昭和2年没。行年78歳であった。


内藤英子の写真
内藤 英子







内藤家の屋敷の写真
英子と政挙が暮らした内藤家の屋敷。戦災で消失、跡地にいまの内藤記念館がたった

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