後藤勇吉(ごとうゆうきち)1896(明治29)年〜1928(昭和3)年


●日本一周飛行に成功
 現延岡市南町に生まれた。少年のころから機械に興味を持ち、中でも模型飛行機の考案や製作にひらめきを見せたという。旧制延岡中学校を卒業して上京、自動車会社の見習工として働きながら、発動機に関心を寄せた。それと同時に当時では珍しい飛行機操縦の技術も習得した。勇吉は1916(大正5)年に郷土の門川町尾末海岸で独力の飛行練習を行うなど、研さんを怠らなかった。翌年、帝国飛行協会の陸軍委託操縦生に合格し、開設されたばかりの日本飛行学校の所沢飛行場で訓練を重ねた。
 そのころヨーロッパでは第一次世界大戦が起こり、日本も1914(同3)年に参戦、さらに1918(同7)年にはシベリアに出兵する。その時、22歳の勇吉も兵士として動員された。
 翌年復員し、帝国飛行協会技師として勤める。そこで日本飛行機製作所や伊藤飛行機の客員研究者なども務めた。1920(同9)年以降は「伊藤式富士号」で各種競技飛行や郵便飛行にも参加し、優勝を含む数回の受賞で一躍その名が知れ渡った。また1921(同10)年には航空法施行による初めての1等航空士となった。その後、日本初の旅客輸送をはじめ、1924(同13)年には4,000キロを連続9日間飛行して、初の日本1周飛行にも成功した。その後、1925年から1926年にかけて航空ページェントにも参加した。
 さらに国際線としての大阪−ソウル−大連間の日中航空路線の開拓にも成功している。1928(昭和3)年には帝国飛行協会の計画した太平洋横断飛行の訓練中に、佐賀県上空で墜落事故により死亡した。(徳永 孝一)
メモ
◎日向カボチャの空輸
 鮮度の高い野菜をいかに早く消費地に届けるかは、今日の課題でもある。70年前の昭和初期には、そのはしりとして日豊線を利用した北九州・大阪へのカボチャやキュウリの輸送が始まっている。
 1927(昭和2)年5月、宮崎県と宮崎市は販路の拡大を図るため、大阪中之島中央公会堂に阪神地方の関係者を招待し、郷土産品を使った料理の大試食会を催すことになった。その宣伝効果を狙って野菜の空輸が発案され、当時名の知れていた勇吉への期待が高まった。
 勇吉は郷土発展に役立てばと思い喜んで引き受けた。カボチャなどの産品を積んだ飛行機は一ツ葉をたち大阪に無事着水。新鮮材料で作った料理は好評で、以来「日向カボチャ」の人気が一段と高まったという。


後藤勇吉の写真
後藤 勇吉







門川町尾末海岸の写真
後藤勇吉が郷土の門川町尾末海岸で練習している風景=1916(大正5)年

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