落合ラン子(おちあい)1887(明治20)年〜1938(昭和13)年


●40歳で帝展に初入選
 美しい鳥を描いた塩瀬の帯がある。60年余りたっても油彩の色調は鮮やかである。鳥を好んで描いた画家・落合ラン子は宮崎の女性では初めての帝展入選者とされている。
 北方村曽木に生まれた。父は菊池慶太郎、母はクマ。菊池家は土地の名家だがラン子は5歳で父に死別、母は女手一つで6人の子を育てた。1968(昭和43)年県文化賞受賞の作家・菊池重三郎はラン子のおいにあたる。
 ラン子は北方小学校から延岡小学校高等科を卒業。16歳の時に念願通り上京し美術学校に入学した。後に米国より帰朝の田添雪枝に、擦筆画(さっぴつが)、油絵などを習った。1911(明治44)年、東京体育専門学校卒の教師・落合円次郎と結婚。青森など夫の任地に暮らすが2人の性格的な違和による苦渋の日々が続いた。
 やがて帰郷し宮崎高等女学校の美術教諭を1年余り勤めたが、円次郎が東京勤務となったのを機に絵に打ち込むことを決意し上京した。そして岡田三郎助の本郷洋画研究所に通い研さんを積んだ。
 師岡田は渡仏し、ラファエル・コランに学び、後に第1回文化勲章を受けた洋画界の重鎮である。彼女は40歳のころ「花」で帝展入選の悲願を果たした。1935(昭和10)年、絵の修業の旅先、台湾で宮崎県人に出会う。高雄病院長・春田操である。
 夫人・まつの紹介で着物や帯に油絵を描き、また個展を開いた。ラン子は感謝を込め、迦陵頻伽(かりょうぴんが)を帯に描き、まつ夫人へ贈った。
 その後満州の旅先で長男が結核に倒れたと知らされ帰国、看護に専念したが死去。ラン子も疲労が重なり同病で1年後に病没、享年52歳。家庭と芸術の拮抗(きっこう)に苦悩しつつも、母としての愛と画家の情熱にその生涯をかけた。(三島 敏子)
メモ
◎迦陵頻伽の帯
 終戦後、春田夫妻は夫の故郷・佐土原町に引き揚げ、医院を開業した。夫人のまつは、県婦連協の会長として婦人運動の中心的存在となった。
 迦陵頻伽の帯は1970(昭和45)年、交流のあった宮崎の若き詩人・三島久美子に贈った。三島は、画家ラン子とまつ夫人との交友を知りそれを受け取った。
 幼い長女を連れて岡田の研究所へ通った厳しい修行の永い年月−。師の岡田は後年、三越から依頼されて呉服のデザインを手掛けた。そのセンスがラン子の描いた帯の油彩に活かされている。
 引き揚げの時、まつが大切に持ち帰った塩瀬の帯−。持ち主が変わった今、古風な和だんすに眠っている


落合ラン子の写真
落合 ラン子







帯の写真
ラン子が春田まつに贈った帯

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