野口遵(のぐちしたがう)1873(明治6)年〜1944(昭和19)年


●工都延岡の生みの親
 現在の旭化成延岡工場の前身である日本窒素肥料株式会社延岡工場が操業を開始したのは、1923(大正12)年10月のことであった。延岡市の豊富な水と電力に目をつけ、カザレー式アンモニア合成法の最新技術を導入し、新工場を建設したのが野口遵である。
 野口は石川県金沢市に生まれた。東京帝国大学電気工学科を卒業後、電気事業の経験を積み、1902(明治35)年藤山常一と仙台でカーバイド製造事業に着手、1906(同39)年、鹿児島県で曽木電気会社、翌年日本カーバイド商会を設立。1908(同41)年、両社を合併し、日本窒素肥料会社を発足させた。
 カザレー法による新技術を用いた延岡工場の敷地になったのは愛宕山の東にあたる恒富村(現延岡市恒富)のさびしい湿地帯であった。この工場立地については日窒側の熱意もさることながら、地元の日吉幾治村長や村会議員が積極的に誘致したという背景があった。用地買収に当たっては当初恒富村が支払うという熱の入れようであった。こうした地元の事情も日窒側に有利に働いた。
 戦後、日窒は財閥解体の中で、持株会社整理の対象企業となり、1949(昭和24)年解散、新日本窒素会社(現チッソ)に経営は継承された。なお旭化成工業は戦前日窒の有力な子会社の1つであった旭ベンベルグ絹糸の後身である。(若山 浩章)
メモ
 カザレー式アンモニア合成法の導入は、これまでの変成法からの大きな技術転換であり、日窒は国内総生産高の多くを占めるほどに成長した。また化学工業製品生産の分野に進出、さらにビスコース法および銅アンモニア法の人絹製造技術も導入し、野口は昭和の同社の発展の基礎を築いた。多方面の分野に進出した日窒は、自社の関連部門を子会社として独立させ、1930(昭和5)年以後は、持株会社の性格が強くなり、コンツェルンを形成。日産・理研などとともに昭和の新興財閥といわれるようになった。


野口遵
野口 遵







愛宕山から眺望した延岡市街地。広がっていた水田が工場敷地になった

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