若山甲蔵(わかやまこうぞう)1868(明治元)年〜1945(昭和20)年


●歴史や文化財を発掘
 西都原古墳群の最初の大がかりな学術調査が行われたのは、1912(大正元)年のことであった。この時、中央の多くの学者の中に交じり若山甲蔵も調査員として名を連ねた。
 甲蔵は徳島県徳島市に生まれた。関西法律学校で学んだ後、1892(明治25)年、日州日日新聞主筆であった兄淳蔵をたより、宮崎に入り日州独立新聞の主筆となった。
 その後、日州教育会に移り機関紙の編集に携わり、1919(大正8)年月刊誌『宮崎県政評論』を刊行した。このころ、県内では県外送電問題が起き、甲蔵は反対運動を推進し同紙を中心に論陣を張った。これら一連の活動を甲蔵は『県外送電反対運動史』(宮崎県政評論社、1923年)にまとめている。
 甲蔵の活動は、こうした言論の世界ばかりではなく、歴史研究や史跡の顕彰などにも及び多くの著作を生み出した。その中でも1930〜32(昭和5〜7)年に刊行された『日向の言葉』は異色の感じがする。モダンな表紙で、大きさは現在の文庫本くらい。定価は1円〜1円20銭。内容も例えば「ヤマイモホル」は「酔へば人に募りかゝり激しい議論を立てゝ執拗くや、ときにあつては腕力に訴へる」と記している。好評だったのか、このシリーズは3巻にわたっている。こうした本を出すのも1つの経営戦略だったのかもしれない。ともあれ同書は当時の地方出版界の1つの到達点を示している。
 1932(昭和7)年県立宮崎図書館長就任。1934(同9)年『日向文献資料』を大成した。(若山 浩)
メモ
◎若山甲蔵の著作
 甲蔵の著作は多岐にわたる。『宮崎県案内記』=1907(明治40)年、『安井息軒先生』=1913(大正2)年、『日向地名録』=1919(同8)年などは、その初期の著作である。その後は宮崎県政評論社を中心に『殉教史譚日講上人』=1921(同10)年、『岸田吟香翁』=1925(同14)年、『宮崎の元祖調べ』=1929(昭和4)年=などを著した。このほか『蔵六演説集』=1926(大正15)年、『蔵六随筆集』=1926(大正15)年=がある。


若山甲蔵の写真
若山 甲蔵







著書の写真
1930〜32年に書かれた『日向の言葉』(県立図書館収蔵)

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