目野清吉(めのせいきち)1887(明治20)年〜1936(昭和11)年


●日向狂句の生みの親
 ビロン葉に冬の無(ね)国ん風が吹く
 宮崎の方言で世相や暮らしの風景を、ユーモラスに描く日向狂句が、初めて世に出たのは1927(昭和2)年。その生みの親は目野丁勘切(めのちょかんきり)こと、目野清吉である。ちょかんきりとは蜥蜴(とかげ)のこと。大分市で生まれ、幼いころ両親と宮崎市に移住した。宮崎尋常高等小学校を卒業した後、写真師を目指して上京。さらに旧満州に渡って技術を磨いた。そして1914(大正3)年に帰り、宮崎市内で写真館を開く。
 その傍ら肥後狂句や薩摩狂句に負けない、地言葉の味を生かした日向狂句の創作に打ち込み、地元紙に作品の投稿を続け読者の注目を集めた。とりわけ「宮崎時事新聞」に連載した、「時事狂句」の作品と寸評は、世相をよくとらえ風刺に富んでいると好評を博した。
 不景気風の吹く世の中を斜めに見て、遊び心でちくりと刺す彼の作風は人々の共感を呼び、やがて各層からの同好者が集まって「へちま会」が結成され、会員は300人にも達した。またその中から数々の優れた作品が生まれた。
 木枯しに馬を吹かせてまだ飲(ぬ)じょる
 大正から昭和の初めにかけての、まだ自由な空気の残る時代に、浮世の憂さを笑いで吹き飛ばす、大衆文化の華を咲かせた丁勘切は、市井の出来事を切り取る、視点やアングルも個性的で、実生活でもまた酒好きの風流人だった。
 その彼も1936(昭和11)年、50歳で他界し、「へちま会」も先細りとなって行った。
 前の世じゃ志(し)こたま貯めた男なり
 宮崎市の小戸神社境内には、この辞世の旬を刻んだ碑が建てられている。(原田 解)
メモ
◎末期の水も日向狂句
 目野清吉の2男・画家の日野順也さんの話によれば、虫垂炎から腹膜炎を併発し、病床にあった彼は、医者から水を飲むことを固く禁じられていたが、のどの乾きに耐えられず、「こんくらいいいじゃろう」と、看護婦の目を盗んで花瓶の水を飲み干し、それがもとで病状が悪化、死に至ったという。日向狂句の世界を地で行った、風流人らしいエピソードである。
〈丁勘切の作品〉
 松露掻きは今去っちたど、松ん露
 こん薬あん薬、とうとうけ死やった
 天の河見ちょる二人が、握っちょる
 人間たけ忙しもんかよ、塀ん猫
 一度どま持った心配が、してみてえ
 思い出は落ちた椿と、馬車ん笛
 銭が無と寒さが一倍、五体に滲み
 暮れ方の花が散るとよ、隠れ鬼
 新婚さんの噂でじわつ、謎をかけ
 何が不経済で御座んしょか、米ん汁
 百貨店子供だますに、べらっする


目野清吉の写真
目野 清吉







石碑の写真
小戸神社境内に建っている目野清吉の石碑

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