岩切章太郎(いわきりしょうたろう)1894(明治26)年〜1985(昭和60)年


●「大地に絵」の夢実現
 宮崎県民はいま、岩切章太郎を「宮崎県観光の父」と呼ぶ。章太郎は1893(明治26)年、岩切與平、ヒサの9人兄弟の長男として現宮崎市中村町に生まれた。高等小学校1年のとき、新渡戸稲造の講演を聞いて感動、人間どこに住んでいてもいい、大きな夢を持つことだと思い、それが後に宮崎に帰るきっかけとなる。
 宮崎中学校(現大宮高校)時代は、首席で通し、望洋会(生徒会)を組織して熱弁をふるい、文章もうまく、柔道の選手や相撲の大関もつとめた。第一高等学校から東京大学政治科に学ぶが、卒業前に、以前宮崎県知事で、当時神奈川県知事だった有吉忠一に、宮崎に帰って民間知事のような仕事をしたいと相談した。
 住友に3年の約束で入社し、自分の意志を通し帰郷、1926(大正15)年に、4台のバスで宮崎市街自動車株式会社(宮崎交通の前身)を創立した。大淀駅(現南宮崎駅)と宮崎神宮間に市内バスの運行を始めた。
 1931(昭和6)年に定期遊覧バスを開始。これが全国に名をはせる観光バスガイドの初登場であり、章太郎の宮崎県観光開発の第1歩となった。
 1933(同8)年に祖国日向産業博覧会を開催し、宮崎県を全国に宣伝、1938(同13)年に宮崎商工会議所会頭となるや再び博覧会を計画、1940(同15)年に日向建国博覧会を開催した。
 また、1936(同11)年から、日南海岸にフェニックスを植栽し、3年後にこどものくにを開園、戦後も、橘公園、えびの高原と次々に大地に絵をかく夢を実現、新婚旅行のメッカ、宮崎ブームを作った。
 1980(同55)年に軽い脳血栓で倒れ、体調を崩し、1985(同60)年死去、92歳であった。(渡辺 綱纜)
メモ
 1963(昭和38)年、池田内閣当時に岩切章太郎は、国鉄総裁の候補となった。地方のバス会社の社長としては異例のことであるが、「宮崎に岩切あり」と、その見識と手腕は中央で高く評価されていた。1967(同42)年、当時の佐藤首相から全日空の社長にも懇請され、元首相岸信介(一高、東大で同窓)も直接説得したが、章太郎は「私は宮崎に夢(大地に絵をかく)を抱いて帰った男です。その夢が実現するまでは宮崎を離れません」と断った。
◎岩切章太郎賞の創設
 宮崎市は昭和63年から、岩切章太郎翁の功績とその観光哲学を永く歴史に継承することを目的に、毎年全国各地で、岩切イズムに共鳴し、実践している個人や団体、自治体に「岩切章太郎賞」を贈り顕彰している。
 選考委員長は日本観光協会の名誉会長梶本保邦氏で、委員は永六輔、石井好子、川上哲治、服部克久、俵万智、木原光知子、塩見一郎の各氏(平成11年3月現在)がつとめている


岩切章太郎の写真
岩切 章太郎







堀切峠のフェニックスの写真
南国宮崎のシンボル・日南海岸堀切峠のフェニックス。岩切章太郎が1936年から植樹した

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