安田尚義(やすだなおよし)1884(明治17)年〜1974(昭和49)年


●歌人として業績多大
 歌人、史学者、文学者、教育者でもあった安田尚義の、90年に及ぶ多彩な歩みには30年を節目に3つの転機があった。
 1907(明治40)年、早稲田大学卒業と同時に、函館商業学校に地理、歴史の教師として赴任したが、教師生活6年半にして、病のため郷里高鍋町に帰省した。
 函館では青柳町に住み、宮崎郁雨(いくう)から啄木の歌ノートをもらい、また、大学時代には、同郷のよしみで、同窓の牧水と交友を深めた。中学時代には国語伝習所で落合直文の『古今和歌集』の講義を聴くなど、歌人としての素地を培った。筆名で、土岐哀果の『生活と芸術』に投稿したのはこの時期であった。
 静養1年、30歳で旧制鹿児島第一中学校に勤め、以来30年間鹿児島県教育界にあった。子弟の教育はもとより、皇族や要人の来県の都度、史蹟主事として説明の大役を果たした。また、歌誌『山茶花』の創刊主宰、太田水穂の『潮音』の選者などを通して多くの歌人を育てた。
 帰郷したのは61歳の4月で、その年の8月に終戦を迎えた。以後、『山茶花』誌の復刊、ラジオ歌壇、新聞歌壇の選者、また初代県歌人協会会長を務めるなど、歌人としての業績は多大である。また著作活動もおう盛で、歌集、伝記、史話、随筆など10編余、いずれも還暦を過ぎてからの老作であった。69歳の秋、宮崎県文化賞を受け、71歳の1月、宮中歌会始に陪聴として招かれた。
 このほか、国、県、町などの公的な仕事にも携わり、83歳の秋、高鍋町名誉町民の称号が贈られた。90歳の誕生日を記念して『虔々集(けんけんしゅう)』を発刊、その年12月、川南町の国立病院で天寿を全うし、高鍋町民葬をもって葬られた。生家は安田郁子が守っている。(神田 工)
メモ
◎作品妙出
春立つや片山岸の夕月夜岩のりこゆる水見ゆるなり(大正13年・40歳)
風音の何かさびしき一日なり竹に小蝶のとまりかねたる(同)
北窓に木枯白き日のくれは時雨にまさる佗しさのあり(大正14年・41歳)
屋根かすむ田越しの家の窓障子にじむとほどの麦の青なり(昭和2年・42歳)
青蚊帳を昼もつりある野の家の垣根に白しむくげの花は(同)
雪明り障子にうつす竹の葉はうす墨よりもなほにほひけり(昭和3年・43歳)
大衆は素朴なれども溌刺と新しき世の光を担う(昭和6年・46歳)
しののめはいまだ動かず海光の蒼くさしくる山ざくら花(昭和8年・49歳)
つまみとる朝の螢の冷たくて指紋にしむがごとくしづけし(昭和10年・51歳)
みづ紅きひかりを引きて火星照れり地球はいまだ夢よりさめず(同)
時じくに霞たなびく青山の尾鈴嶺かなし国やぶれたり(昭和20年・61歳)
尾鈴山ひとつあるゆゑ黒髪の白くなるまで国恋ひにけり(同)


安田尚義の写真
秋月種樹直筆の掛け軸の前で執筆中の安田尚義







住居の写真
還暦を過ぎてからもおう盛な執筆を続けた住居

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