中村地平(なかむらちへい)1908(明治41)年〜1963(昭和38)年


●井伏鱒二門下の1人
 1908(明治41)年現宮崎市淀川町に中村常三郎の2男として生まれた。本名治兵衛。旧制宮崎中学校(現大宮高校)から台湾台北高等学校を経て東京大学文学部卒業。学生時代の1932(昭和7)年「熱帯柳の種子」を文芸誌「作品」に発表。太宰治、小山祐士とともに、井伏鱒二門下の3羽ガラスといわれた。1938(同13)年に発表した「南方郵信」で第7回芥川賞候補になり文壇にデビュー、「戦死した兄」「長耳国漂流記」「あおば若葉」などの小説集に、自らがあこがれた南方の風土で培われた南方文学を提唱した。ほかにエッセーを含めた「仕事机」などがある。1944(同19)年疎開して宮崎市に帰郷。戦後、日向日日新聞(現宮崎日日新聞社)編集総務、西部図書株式会社の設立にかかわり、1947(同22)年宮崎県立図書館長となった。そして「花と絵の図書館」めざし、県内を巡回する自動車文庫「やまびこ」の創設など地方文化活動をすすめた。一方、女子自由学園の創立をはかり、宮崎大学、日向興銀(現宮崎銀行)とともに文化講座、県民講座、日向文庫刊行など県民文化振興に貢献。作家活動としては「八年間」「義妹」「朝の雀」などの秀作を「世界」「群像」などに発表した。第1回宮崎県文化賞、西日本文化賞を受賞。晩年は父常三郎の跡を継いで宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)社長を勤めた。没後「中村地平全集」(皆美社・3巻)を刊行。同1973(同48)年宮崎市一ツ葉市民の森に文学碑が建立された。碑文は「雲は どこにでも 似つかわしい姿で あらわれる」。毎年、命日2月26日前後の土曜日に地平忌が催されている。なお没後発見された小説「発端」(未定稿)には226事件に遭遇する主人公が出てくるが、くしくも、その日が命日にあたる。(黒木 淳吉)
メモ
 1954(昭和29)年突然、県立図書館に坂口安吾が中村地平を訪ねてきた。中央公論の「安吾新風土記」の第1回「高千穂に雨降れり」を取材するためだった。旧知の中村地平がいたことも第1回に選ばれた理由の1つであったらしい。地平全集の年譜をみると、中央の作家たちの来宮が多いのが目につく。坪田譲治、金子光晴、若山喜志子、海老原喜之助、志賀直哉、里見外字(とん)、有島生馬、東郷青児、それに火野葦平など。また文芸春秋の講演会で来宮した文化人たちや日向興銀の講演会の講師たちを加えると、大半を接遇したのかもしれない。没後も檀一雄、中谷孝雄それに島尾敏雄、庄野潤三などが訪れている。
 文化面はもちろん、宮崎紹介の面からも大きな貢献をしている。中でも「日向」(新風土記叢書)「日向」(角川文庫)など、すぐれた風土記として、郷土紹介につとめているといえよう。


中村地平の写真
中村 地平







文学碑の写真
宮崎市の市民の森に建立されている中村地平の文学碑

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