高森文夫(たかもりふみお)1910(明治43)年〜1998(平成10)年


●中也賞受賞した詩人
 東郷町山陰に生まれた。小学校高学年のころから文学に興味を持ち、国木田独歩などを読んだ。旧制延岡中学時代にはロシア文学に熱中、中でもチェーホフを愛読、生涯敬慕の情を抱きつづけた。中学を卒業後上京、私立成城高校から東京大学仏文科に学んだ。1935(昭和10)年卒業。
 その後4年間、母校延岡中学で教壇に立ったが、窮屈な生活に飽き、大陸へのあこがれも手伝って、1939(同14)年に旧満州国満州映画協会に入社、企画課長となった。1944(同19)年に陸軍に召集され、北満の部隊に入隊。敗戦と同時にシベリアに抑留され、イルクーツク、チレンホア、ハバロフスクなどの収容所で満4年間の苦役に服した。1949(同24)年帰国。その後、県内の教育委員や東郷町の町長などを歴任した。
 1968(同43)年第2詩集『昨日の空』を刊行。1990(平成2)年、既刊詩集に新しく編んだ『一つの季節』と初期詩2篇・戯詩2篇を収めた全詩集『舷灯』を上梓、第1回宮日出版文化賞を受賞した。1942(同17)年「四季」同人となり、1975(同50)年の終刊号まで籍を置く。丸山薫編『四季詩集』に詩5篇、また創元文庫『日本詩人全集』第8巻には代表作「冬薔薇」ほか詩7篇が収録されている。
 高校時代に詩人中原中也と出会い深い交友を重ねた。中也も3度東郷町を訪れている。東大の仏文を選んだのも、この中也との出会いがきっかけであった。1937(同12)年処女詩集『浚渫船』を刊行。第2回中原中也賞を杉山平一とともに受賞した。1998(平成10)年6月88歳で没した。(本多 寿)
メモ
◎中原中也との交友
 1931(昭和6)年ごろの歳末、まだ高校生であった高森は砧(きぬた)村の小さな借家に、後年音楽評論家となった吉田秀和と2人で住んでいた。その時、あいにく留守だった吉田を訪ねてきた中原中也と出会う。全集の口絵などで有名な真っ黒なソフト帽と黒い外套を着た中也は蒼白い顔に見開いた黒い瞳が妙に大きく感じられ、高森は「難破船から匍い上がってきた船員!」という印象を受けたと述懐している。その後、2人は兄弟のような交際をはじめ、天草への旅を楽しんだ。また第1詩集『浚渫船』を出版した際に、『四季』に肉親の兄貴のような心情で、紹介と広告の一文を書いてもらったりもした。
 そして、4か月後の10月22日、中也は鎌倉の養生院で永眠する。高森は、その後60年余を生きたが、生涯にわたって中也の思い出を抱き続けていた。東郷町山陰の生家に住み、目立つことを嫌った含羞の詩人であった。


高森文夫の写真
高森 文夫







高森が住んでいた家の写真
若いころ中原中也とも交流があり、晩年は町長を務めた高森が住んでいた家

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