瑛九(えいきゅう)1911(明治44)年〜1960(昭和35)年


●独特の抽象表現確立
 県立芸術劇場のどんちょうは、瑛九の代表作「田園B」をもとにしたものである。
 瑛九の作品は実に多彩である。油彩、水彩、ガラス絵、コラージュ、フォト・デッサンなどの他に、当時まだ新しい技法であった銅版画、石版画にも独学で取り組んだ。表現様式も印象主義、シーュルレアリスム、キュービスム、抽象と次々に変転、反復し、そのめまぐるしさには周りがあっけにとられるほどであった。
 本名は杉田秀夫。1911(明治44)年、宮崎市の眼科医杉田直の2男として生まれた。1925(大正14)年、14歳で上京、日本美術学校洋画科に入学。絵画制作の一方『みづゑ』『アトリエ』などの代表的な美術雑誌に評論を寄稿し健筆をふるった。1936(昭和11)年、写真の印画紙に光によってイメージを描きだす「フォト・デッサン」を瑛九の名前で発表。これにより造形作家として美術界で注目を浴びることになった。
 創作活動の他に、新しい美術運動、団体の結成・創立にも参加した。1951(同26)年には公募展という枠を打破し、自由と独立の精神で制作することを主張するデモクラート美術家協会を結成した。瑛九に共感してこの会に集まったなかには画家の靉嘔(あいおう)、池田満寿夫、写真家の細江英公らがいる。
 7年後、会を解散。後は、油彩画の制作に没頭し、色点の集積による宇宙的な広がりをもった独特の抽象表現を確立した。1960(同35)年、病気であることも気付かず描き続けた作品を個展で発表した数日後、48歳の若さで急逝した。絶筆は200号の「つばさ」。孤高の魂で飛び続けた画家であった。(高野 明広)
メモ
◎瑛九誕生
 瑛九の「フォト・デッサン」はマン・レイやモホリ=ナギが印画紙の上に物を置き、直接光をあてて制作した「フォトグラム」と同じ技法である。しかし、瑛九の場合は自らが切り抜いた型紙を使うという絵画性の強い独創的なものであった。
 1936(昭和11)年、その作品は画家の長谷川三郎、美術評論家の外山卯三郎から絶賛され、フォト・デッサン集『眠りの理由』として刊行することになる。秀夫が「瑛九」と命名されるのもこの時であり、「秀夫という名前ではあまりに平凡、過去のカスがくっついていやだ」と言い出したことから考えられたものである。
 外山の好きな「瑛」の字と、長谷川の好きな「九」を合わせて「瑛九」となった。「瑛」は水晶球、「九」は多数の意で、「水晶球がたくさん集まってキラキラ輝く」といった意味になるのだと、瑛九は大変気に入っていたようである。


瑛九の写真
アトリエの瑛九







田園Bの画像
代表作の1つである「田園B」1959年作

目次へ
55 高森 文夫のページへ
57 服部 新佐のページへ