薦田一吉(こもだかずよし)1915(大正4)年〜1967(昭和42)年


●惑星に名を残す天文家
 宮崎県は天体の観測に適した土地で、スターウオッチングも盛んである。その夜空に明るく輝く木星の観測で、世界的に知られたアマチュア天文家が薦田一吉である。
 1914(大正4)年、宮崎市の中村町に生まれた。幼いころ小児まひにかかり、右足が不自由であったが、このハンディを克服して宮崎商業に進学、ここで星の運行に魅了され、卒業後も家業を手伝いながら、手製の望遠鏡で天体観測に打ち込んだ。とりわけそれまであまり注目されなかった木星の表面の変化に興味を抱き、克明なスケッチと調査書を、日本やアメリカの学会に送り続けた。
 やがて日中戦争から第2次世界大戦へと戦火が拡大し、研究がやり難くなっていく中でも、イギリス天文学会の報告書を手に入れ、辞書を片手に夜空を仰いだ。
 終戦から5年目の1950(昭和25)年、彼は裏庭に念願の小さな天文台を完成させ、21cmの望遠鏡を使用した木星のスケッチは、628枚にも達し、観測は通算17年にも及ぶ。その翌年、木星の自動周期に関する論文が認められ、アメリカの研究団体から日本人として5人目の、国際会員に推薦され、学会や関係者の注目を浴びた。
 木星観測の草分け的存在であった薦田一吉は、また子供のための星空教室を開くなど、普及にもつとめ、1967(昭和42)年、宮崎市で52歳の人生を終える。夜空にかけた情熱と研究成果に対して、1998(平成10)年、国際天文学連合(IAU)は、新発見の小惑星6744に「komoda」と命名し、その功績を讃えている。(原田 解)
メモ
◎夢を与えてくれた観測会
 手造りの天文台を裏庭に完成させた1950(昭和25)年ごろの観測仲間たちは「当時はたいへんな食料難で、暮らしも心も荒れて、乾ききった状態でしたが、彼が主催する観月会や、流星群観測会などに参加することによって、夢や潤いを与えてもらうことができました。とにかく星一筋の人でした。あまり強くない体のいったいどこに、あんなエネルギーがあるのだろうと、感心し合ったものです」と口々に語っている。
◎月に1番乗り
 またツヤ夫人(79)は「月に人間が行けるようになったら、自分はいの1番に行きたい。そう言ったことがありました。主人が亡くなって人間は、月にロケットで到着しましたが、もし主人が生きていたら、どんな思いをしたでしょうね」と振り返っている。


薦田一吉の写真
薦田 一吉







天文台の写真
裏庭に手作りで完成させた天文台

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