杉田直(すぎたなお)1869(明治2)年〜1960(昭和35)年


●眼科医と俳人で活躍
 1998(平成10)年2月、杉田眼科医院は開院100周年を迎えた。その初代が杉田直、俳号を作郎といった。ほとんど独力で医術開業試験に合格、東京大学眼科医局に身を置くまでの歩みには、並々ならぬ努力の積み重ねが見られる。秋月種樹や高木兼寛に激励され、“日本眼科の父”と称された河本重次郎に師事、眼科医としての歩むべき道を定めた。
 1897(明治30)年、わが国で始めて視器を用いた「帝国大学学生の視力」(『日本眼科学会雑誌』第2巻)を発表、医学界の注目を集めた。この間、俳句結社「秋声会」同人となり、戸川残花・巌谷小波・尾崎紅葉らと親交、のち子規門の「ホトトギス」に入り、内藤鳴雪・夏目漱石・高浜虚子らと交流。
 1898(明治31)年帰郷、眼科医院を設立、34歳で宮崎郡医師会長、37歳で宮崎県医師会長。県医師会館の建設をはじめ、『宮崎県医師会50年史』を編さんするなど、県医学界の発展に貢献した。
 一方、地元では俳句結社「蓬会」を主宰、十指に及ぶ全国俳誌の選を担当、河東碧梧桐(へきごとう)をして、“九州排句の四探題”といわしめた。やがて作郎は荻原井泉水(せいせんすい)の「自由律俳句」に転ずるが、ここでも種田山頭火を宮崎に迎えるなど、大いに気炎を吐いた。編著に『雁来紅』『禿本風声』『日本九峯修行日記』など。ことに晩年の『日向俳壇史』は、貴重な俳諧資料の公開となり、1955(昭和30)年県文化賞を受賞した。
 作郎の健康法は歩くこと、雨の日も風の日も宮崎神宮に日参すること50年、東神苑には彼の自由律「柿の赤さはつゝみきれない」の1句が、碑に刻まれている。(山口 保明)
メモ
◎杉田山房の四門
 杉田正臣は、直の長男として誕生した。父の眼科を継ぐ本名での「医門」、俳句の道を継ぎ井蛙(せいあ)と称した「俳門」、そして従心と称した「静坐門」、さらに巴心太を名乗りとした「エスペラント門」で活躍、多くの人々がこの「四門」に集まった。
 「100万人の眼を診て今日の眼を診る」(眼科50年)「坐っても坐ってもこの道ひとり」(静坐50年)「百の種も千の種も生えぬ種まく」(エスペラント50年)「月へ心の旅をする」(自由律俳句)。これが、彼の四門の世界。
 父作郎につぎ「層雲寿老賞」を受賞、主宰の井泉水は「人間賞というものがあれば、第 1に君を挙げたい」と述べている。また、宮崎日日新聞文化賞、県文化賞を受賞、もちろん彼の「四門」の功績をたたえてのことであった。
 正臣は晩年、貴重な文化資料「杉田文庫」を宮崎県立図書館に寄贈した。ふるさとを愛した彼であった。


杉田直の写真
「日向俳壇史」執筆当時の杉田直(84歳)







杉田眼科医院の写真
杉田直から3代目、現在の杉田眼科医院

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