小手川善次郎(こてがわぜんじろう)1889(明治22)年〜1957(昭和32)年


●「高千穂学」の発信
 小手川善次郎に“郷土史家”の名はふさわしくない。広範な文献探索と実地踏査による地域文化の発掘は、着実にして手堅い。彼の業績が活字化されたのは、この世を去ってから20年を経てのことで、何よりもこのことがその評価を雄弁に物語っていよう。
 1978(昭和53)年5月、高千穂の夜神楽は国指定重要無形民俗文化財となったが、彼の著『高千穂神楽』の一書が橋渡し役を果たしたことはいうまでもない。本書を抜きにしては、高千穂神楽は語れない。“高千穂人がすすめる神楽本”として、版を重ねていることからみても、彼の「高千穂学」の発信はうち続いている。
 1991(平成3)年2月、彼の第2遺稿集ともいうべき『高千穂の民家・他歴史資料』が刊行された。これは“高千穂型民家”をきっぱりと位置づけた好著である。また、“神話のふるさと”などと称される高千穂の神々を記録、さらに歴史上から見た高千穂の人物誌や藩政下における農村社会の実態を描く。九州山地麓(ふもと)の集落の姿、庶民の山岳信仰をとらえるなど、そのおう盛な探究の歩みには目を見張るものがある。
 本名は源三郎、代々善次郎を襲名。父の代に大分県から高千穂に移り、高千穂三田井に生まれた。呉服商“かなや”を営む傍ら、高千穂産業組合長・高千穂地方商業統制組合長などをつとめ、地域経済の振興に貢献した。また、“地域発展の核は教育にあり”と考えた彼は、高千穂小学校に講堂を建設するため私財を投じたり、高千穂高校に「小手川文庫」を設置するなど、その業績は多方面にわたる。ちなみに、彼の遺著は後継家族によって刊行された。(山口 保明)
メモ
◎鉄筆ガリ刷り
 小手川の“ふるさと愛”に支えられた、学問への出発は遅かった。家業も安定した45、6歳からであろう。「高千穂学」として体系づけられたのは、それからまた10年。まとめに入ったのは戦後のことであり、最晩年までに100有余編がものされた。
 一部は『熊本史学』(熊本大学)や『史学雑誌』(東京大学)に活字化されたが、そのほとんどは鉄筆による直書きで、ワラ半紙に印字。物資不足で紙質もよくないし、細字でびっしり、おまけに行間無視の難読原稿。一気に吹き出す“持論”の展開をそのまま、記述一本ですすめた筆跡。
 小手川と肝胆相照らす仲であった史学者柳宏吉は、「県内外の研究者に対し、それ(小手川論考)を提供することが困難で、関係者はいつも気の毒に思ったのであった」(『高千穂神楽』序文)と書いている。いったん書了すると、それに固執することなく鉄筆をすすめたのであった。


小手川善次郎の写真
小手川 善次郎







高千穂神楽の写真
小手川が愛した高千穂神楽(三田井浅ヶ部神楽「御柴」)

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