神戸雄一(かんべゆういち)1902(明治35)年〜1954(昭和29)年


●優れた詩、小説発表
 串間市に父・八郎、母・スミの2男として生まれた。生家は素封家で、幅広く漁業・農林業を営んでいた。1909(明治42)年松山尋常小学校入学。このころから『日本少年』『文章世界』などを愛読。1915(大正4)年旧制志布志中学に入学、3年生の時に東京の順天中学に転校。1920(同9)年東洋大学に進学したが中途退学。3年後高村光太郎の推挙により処女詩集『空と木橋との秋』(抒情詩社)を刊行した。
 その後、詩誌『抒情詩』『太平洋詩人』『ダムダム』『詩神』などに参加し、金子光時、小野十三郎、壷井繁治、高橋新吉、林芙美子、草野心平らとともに活躍した。1927(昭和2)年第2詩集『岬・一点の僕』(作品社)を刊行。やがて小説にも力を入れ、『海豹』『ノーベル』『文陣』ほかの雑誌を編集し、作品を発表して多くの作家と交流した。
 1943(同18)年第3詩集『新たなる日』(図書研究社)、小説集『番人』(図書研究社)を同時刊行。続いて偉人伝『小村寿太郎』(小学館)を刊行した。1944(同19)年日向日日新聞社(現宮崎日日新聞社)に招かれて帰郷。文化部長・出版局長を務めるかたわら、読者投稿欄「日向詩壇」、NHK宮崎放送局「ラジオ文芸」の選者となり若い詩人の指導、育成にあたるなど故郷の文化活動に力を尽くした。
 1949(同24)年童話集『うさぎの手紙』(青雲社)を刊行。また、文芸誌『龍舌蘭』に『鶴』などの優れた詩を発表した。ほかに編著『小説・エッセイ』(朝日書房)などがある。1954(同29)年第5回宮崎県文化賞を受賞した。(本多 寿)
メモ
 神戸雄一の末弟信一の話によると、雄一は少年時代から有木芳水の純情詩や純情小説、押川春浪、江見水蔭の冒険小説や探偵小説に熱中し、同年輩の近所の子供たちを集めては、立川文庫の『豪傑譚』の一席を身ぶり手ぶりよろしく熱演してみせたという。長じて、東洋大学に入学したものの、ほとんど講義に出ることなく中退。詩人や作家との交流が忙しかったらしい。
 神戸がなくなったあとに出された『龍舌蘭』の神戸雄一追悼特集に寄せた詩人高橋新吉によると、神戸は本郷にあった追分館という3階の下宿にいて、そこには同せいのうわさのあった俳優の田辺若男と林芙美子や林政雄、萩原恭次郎などが出入りしていた。
 また、出版社を経営したりする一方、「龍舌蘭」の東京支部を結成したりもしている。


神戸雄一の写真
神戸 雄一







碑の写真
串間市文化会館の前庭に建っている神戸雄一の『鶴』の碑

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