富松良夫(とみまつよしお)1903(明治36)年〜1954(昭和29)年


●清澄な詩に高い評価
 教育家の富松柏の長男として都城市姫城町に生まれた。6歳のとき脊髄(せきずい)病にかかり障害の身となった。翌年生母を亡くし、伯母に背負われ小学校に通った。1917(大正6)年高等小学校を卒業、1919(同8)年キリスト教に入信して洗礼を受けた。1925(同14)年、22歳のとき、文芸誌『盆地』を刊行。1929(昭和4)年詩誌『白』を主宰。手製のがり刷りの詩誌であった。翌5年処女詩集『寂しき候鳥』を友人坂元彦太郎などの助力で刊行した。
 “この小さな詩集を亡き富士子の霊に捧ぐ”と妹への献辞がある。恵まれぬ体でありながら独学で詩以外に美術論、音楽論、宗教論を書き、フランス語を学び訳詩もある。敬慕して集まる青年たちに大きな影響を与えたが、特に戦後の混乱期には宮沢賢治の話に傾聴した農村青年は多かったという。
 それらの仲間たちの助力もあって、第2集『微かなる花譜』が出版された。晩年は文学講座やレコードコンサートの講師のほか、校歌の作詞など公的活動によって1950(同25)年都城市文化賞を受賞した。
 没後『龍舌蘭』『詩学』『日本未来派』などに発表した詩、エッセー、訳詩を含めた代表詩集『黙示』が1958(同33)年に弟・昇によって発行された。友人瑛九の装画で飾られ、清澄な詩作品として全国に大きな評価が寄せられた。1971(同46)年10月、都城市立図書館前に詩碑が建立された。『秋の霧島』最終連の4行が刻まれている。
 おまえも旅人 わたしも旅人
 さっさっと何を急ごう
 山膚をなぜ 山の根をさすり
 わが胸の底の炎は消されはせぬ
(黒木 淳吉)
メモ
 富松良夫には肉親をはじめ、友人それに彼を尊敬する人たちがいて、あたたかく見守っている。母方の伯母にあたる有馬馨は戦艦「武蔵」の初代艦長で、薄幸な良夫に本代5円を送金し続け勉強を助けたという。また父は良夫を庇(ひ)護し、その最期をみとり、1962(昭和37)年92歳で亡くなっている。
 友人坂元彦太郎は1953(同28)年、絵画の好きな彼を招き倉敷市の大原美術館までルオー展鑑賞に行っている。原画を見る機会の少なかった彼にとっては大きな喜びであったという。
 黒木清次をはじめ多くの崇拝者たちによって生まれた詩集『微かなる花譜』や『黙示』『現身』、未刊の詩、エッセーなどいずれも詩人への賛歌といえる。
 金丸桝一は「おのれにきびしく他人にやさしく、詩を一生の実践行為として受けとめていた詩人」という。


富松良夫の写真
富松 良夫







文学碑の写真
都城市立図書館の敷地内に建っている文学碑

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