野口逸三郎(のぐちいつさぶろう)1910(明治43)年〜1996(平成8)年


●統合制高校を再編成
 福岡県田主丸町で生まれた。旧制五高から、東京大学国史学科に進み、羽仁五郎の門下となった。1934(昭和9)年、旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高校)に赴任、1941(同16)年から旧宮崎県師範学校教授。1943(同18)年、久留米歩兵連隊へ教育召集を受けた。復員後、県教育委員会県視学、指導課長を経て、県立延岡恒富高校と宮崎大宮高校の校長を歴任する。
 1960(同35)年、49歳で県教育長に就任した。当時は教育行政の変革期で、教育課程・勤務評定・学力テストなどをめぐって教職員組合が激しく反対闘争を展開した激動期であった。
 そうした中で彼は米軍占領下に発足した統合制高校の再編成を手がけた。教育行政の集大成ともいえる高校の合同選抜である。県議会や父母の一部から猛反対を受けたが、歴史の審判を待つと、その信念を貫いた。
 1969(同44)年、定年を1年残して退職。その後12年間宮崎女子短期大学学長を務めた。そして宿願であった学究の道を再び歩みはじめた。椎葉山に関する研究に着手し、県立図書館刊行『宮崎県史料』の監修者となると同時に、宮崎県地方史研究会を主宰し、これまで一般に紹介されていなかった『高岡名勝志』などを次々に史料集として刊行した。
 また、同会を母胎として県内各地の歴史研究団体をまとめて宮崎県地方史研究連絡協議会を結成、その初代会長に就いた。これにより県内の歴史文化研究網が充実。会員の意識の高揚は、各市町村史としても結実していった。
 「学問・研究は、知識を得るためだけではない。己をみつめ、己の生き方を考える方法のひとつである」というのが野口の信条であった。1996(平成8)年7月86歳で没した。(岩切 悦子)
メモ
◎書斎と唯一の請願書
 書斎には、天井まである書棚に大学時代からの研究書・論文などが整然と並び、机の周辺にも、資料がすぐに利用できるよう整理架蔵されていた。
 野口は、この書斎で『椎葉山の歴史』など多くの論文を執筆し、『佐土原藩御内検地条目』をはじめとする史料解読を重ねた。ここで野口は生涯で唯一の、県議会あての請願書を書いた。かねてから心に懸けていることがあった。宮崎県史の公刊と、公文書館の設置である。県史刊行事業は1984(昭和59)年に着手され、野口も編さん委員会委員・同専門委員会副委員長となって、編さん事業の中心的役割を果たした。
 1987(同62)年公文書館法公布が翌年施行。この年12月1日、宮崎県地方史研究連絡協議会長野口が、県議会に「宮崎県公文書館設置について請願書」を提出して採択された。野口は公文書館の設立を見ずして没した。


野口逸三郎の写真
野口 逸三郎







書斎の写真
野口が使っていた書斎。ここで生涯で唯一の請願書を書いた

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