長瀬泰吉(ながせやすきち)1896(明治29)年〜1977(昭和52)年


●野球ボール生産守る
 ナガセケンコー(旧社名・長瀬ゴム工業)は現在、軟式野球ボール、ソフトボールの生産で全国市場の7割、ソフトテニスボールで5割を占めている。一企業の市場占有率としては極めて高い。
 長瀬泰吉は北浦町に生まれた。兵役3年を終えた後、1919(大正8)年、中国に渡って畜産会社に就職した。中国語をマスターするため、1年間夜学に通ってこれをものにした。
 その後貿易に携わって、1927(昭和2)年神戸に帰国した。3年後、ゴム工業会社を興し、ゴム長靴を作って販売を担当した。
 1933(昭和8)年から野球ボールの生産を始め、ゴム長靴の技術を生かして、割れにくい二重張りボールを作りあげた。間もなく日中戦争、そして太平洋戦争が始まり、ボールの生産は困難になった。
 工場が軍需工場化される中で、「いつか野球をする日が必ず来る」と信じて、ゴムボールの生産設備は変えずに守り続けた。
 敗戦後、占領軍が来ると野球が盛んになった。原料不足の時代でも、生ゴムの原料割り当てをもらい、ボールの生産を再開した。戦時中も必死に設備を守ったおかげである。
 こうして長瀬のボールが全国に広がった。創業のころ、長瀬はリヤカーに製品を積んで問屋を回り、戦時中には、子供から野球を奪わないよう、役所を回って細々と原料の配給をもらった。戦争にも貧乏にも負けない人生であった。敗戦の年、最愛の夫人を亡くし、以後仕事とがっぷり組んで、立志伝中の人というにふさわしい81歳の生涯を終えた。(甲斐 亮典)
メモ
◎真っ白いボール1つ
 1919(大正8)年22歳の青年は、着のみ着のままで中国の青島に渡った。なんのつてもない彼は、仕事にありつくまでの3日間、水ばかり飲んで過ごした。その時、「人間は気持ちさえしっかりしていれば、3日や4日飯を食わんでも生きておられると悟った」という。
 東京都墨田区に住んだ。晩年は日本ゴム工業会常任理事、墨田区体育協会長などを務めた。全日本軟式野球連盟理事長・船津国夫さんは「親分肌で、同郷人や困っている人の面倒をよく見ていた。軟式野球界の恩人の1人。ボール改良に情熱を注ぎ続けた人」と回想している。葬儀の日、ひつぎには真っ白いボールが1つ置かれていた。


長瀬泰吉の写真
長瀬 泰吉







vの写真
長瀬が興した会社もいまは社名も新しくなり、さらに飛躍している

目次へ
66 野口 逸三郎のページへ
68 塩月 桃甫のページへ