柳宏吉(やなぎこうきち)1911(明治44)年〜1986(昭和61)年


●記紀研究に生涯尽力
 柳宏吉は「日本の神代史、古代史の研究を盛んにして日向の地位を日本史上に高めねばならぬ。そのために中央から新進の優秀な学者を1人来てもらい、その人を中心に日向の研究者、学者、教育者が皆一体になって日向の研究を進めたい」という当時の知事相川勝六と県議会の要請を受けて、1938(昭和13)年4月、高千穂実業学校に赴任した。東京大学文学部国史学科で坂本太郎博士のもとで古代史を学んでおり、文字通り新進気鋭の学者であった。
 招へいにあたっては古代史の研究者、研究の題目・内容は自由、高千穂実業学校定員外教員として採用、研究と週10時間程度の授業・一般校務を軽減、学会出席の休暇を認める、5年以上の在勤−という当時としては破格の条件であった。
 太平洋戦争の終結という歴史の節目もあり、その後の処遇は必ずしも十分ではなかったが、それでも、研究機関や大学からの誘いも退けて、終生、高千穂や宮崎を離れることはなかった。そして県の要請にこたえようと努力精進し、多くの研究成果を残した。生涯の研究題目は、晩年に発表されるようになった「天孫降臨説話について」にみられるように、記紀の「神代」であった。その意味での「高千穂」であり、「日向」であった。
 生涯の研究成果は、自身の『著書及学術論文調査書』(論文目録)400字詰め原稿用紙24枚に及ぶ。「宮崎」の歴史のほか六国史に関する日本史上に輝く研究も多い。1956(同31)年、県文化賞(学術部門)を受賞。文化財保護の上でも大きな業績を残した。(永井 哲雄)
メモ
◎高潔な信念をもった研究者
 売り込みはやりの現今では耳の痛くなる言葉であるが「人は必要とされるときに求められる」と自己顕示欲のまったくない人だった。国宝、重文級の資料でも「柳先生が館長の博物館なら喜こんで出品させていただきます」と言わせるほどの信頼があった。また生徒から職場の部下にいたるまで、へだたりなく礼をつくし限りなく家族を愛していた。
 一見小柄で色白の学者の彼を語るにはスポーツは欠かせない。陸上(投てき)、柔道、剣道、空手など格技はすべて有段者であった。少年のころ、近所に住んでいた佐藤紅緑の小説「あゝ玉杯に花うけて」の柳少年こそ、彼その人であった。


柳宏吉の写真
柳 宏吉







高千穂実業学校全景の写真
県立高千穂高校の前身の高千穂実業学校全景。柳の初赴任地だった

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