日高重孝(ひだかじゅうこう)1884(明治17)年〜1980(昭和55)年


●旧制宮中の校風創設
 田村弥太助・きさの2男奈太郎として現宮崎市中村町に生まれた。6歳のとき伯父日高健助の養嗣子となったのち1917(大正6)年ごろ、奈太郎を重孝と改名した。
 1902(明治35)年3月に宮崎中学校(現宮崎大宮高校)を卒業し、鹿児島第七高等学校へ進み、さらに東京大学国史学科に学んだ。卒業後は私立順天中学校に勤務しながら、喜田貞吉とともに『日向国史』の編さん・執筆を行った。
 『日向国史』の完成後、1918(大正7)年34歳のときに七高時代の恩師岩崎行親に招かれて鹿児島の私立福山中学校副校長、6年後には校長となり、英才教育を実践した。さらに、1930(昭和5)年に母校の宮崎中学校第17代校長として赴任した。初めての宮中出身の校長であり、15年間の在職中に多くの若者を育て、質実剛健の校風をつくりあげた。
 また1945(同20)年61歳のときには宮崎県立図書館長に就任し、上代日向研究所長を兼任した。2年後に職を辞したが、1953(同28)年に県立博物館の初代館長に迎えられ、約4年間勤めた。
 人格は高潔で人間味にあふれ、卒業生をはじめ多くの人々に慕われていた。教育と歴史だけでなく、文学にも造けいが深く、漢詩・和歌・謡曲・俳句・琵琶歌などを好んだ。1915(大正4)年に宮崎中学校の校歌を作詞したほか、祖国振興隊の日向振興朗誦文や八紘之基柱定礎之辞並八紘之基柱大日本国勢記を作成している。著書は『日向国史』『日向今昔物語』『孤窓漫録』『回想記』など10数点がある。1953(昭和28)年宮崎県文化賞を受賞。(籾木 郁朗)
メモ
 母校の宮崎中学校第17代校長として赴任するため宮崎駅に到着すると、多くの先輩・親戚などが出迎えていた。しかし、日高が驚いたのは、さらに駅前から高千穂通にかけて、宮崎中学校の職員・生徒1,000人近くが校旗を翻し歓迎の列をつくっていたことである。あいさつしながら生徒たちの前を通過したとき、日高が作詞した校歌「ああ、東海の君子国」の大合唱が起こった。日高は「私はまだ1度もその合唱を聞いたことがなかったので、何とも言えぬ感激と愛着とに、血汐の高鳴りを禁じ得なかった」(『追想記』)と回想している。生徒たちの歌声は、教育者としての日高の拠り所となった。
 日高は書を読み、文章を書くことを好み、死の直前までペンを取っていた。また、酒も好きで毎日晩酌をし、卒業生と酒を酌み交わすのを楽しみにしていたという。人と書と酒を愛し、4人の子どもにみとられて95歳の生涯を閉じた。


日高重孝の写真
日高 重孝







大宮高校の写真
日高が校長を務めた旧制宮中は、戦後大宮高校に変わり伝統を引き継ぐ

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