ハンス・ハンター1884(明治17)年〜1947(昭和22)年


●見立鉱山を近代経営
 歴史散策で人気のある日之影町見立地区の、英国館を建てたハンス・ハンターは、海外の新しい生活文化を、いち早く県民に紹介した実業家で、日本名は範多範三郎。
 彼はハンター商会の経営者、英国人E・H・ハンターの2男として、神戸の異人館通りで生まれた。母親は和歌山の武士の娘で平野愛子。その後7歳で父の祖国に渡り、大学で鉱山関係の勉強をする。さらに各国の鉱山を見学して帰国、実業家として幅広い活躍を始めた。
 1924(大正13)年、延岡の内藤家から見立鉱山の経営権を譲り受け、再興と近代化に取り組む。そして以前手掛けた鯛生金山(大分県)にならって外国人技師たちのクラブハウスを建て、英国館としてビジネスと社交の場に活用した。
 1926(同15)年、東洋鉱山株式会社を設立。錫(すず)の本格的な採掘に乗り出す。やがて仕事が軌道に乗り出したハンターは時間を割いて現地を訪れ、英国館に泊まり込んでさい配を振るった。1930(昭和5)年から38年にかけての全盛期には、鉱山の人口は1,200人(340戸)を超し、山腹に住居が軒を連ね、生産量も600トン近くに達した。
 そうした現場の活況や山の風俗を、彼は当時まだ珍しかった16ミリカメラで撮影したほか、自家発電機、冷蔵庫、ストーブ、蓄音機といった新しい生活文化の数々を持ち込み、山中に暮らす人々を驚かせた。
 しかしその後、戦時色が次第に濃くなり、外国資本による企業経営が困難になってきたため、彼は1940(同15)年、見立を去って東京へ引き揚げた。そして戦後間もなくの1947(同22)年、64歳で他界する。(原田 解)
メモ
◎山中の夢の国
 ハンターが好んで使用した英国館は、まだ電気が県内に普及していない時代なのに、自家発電による百燭(しょく)光の電燈がともり、冷蔵庫やストーブやバスタブが備え付けられ、レタスやパセリが栽培されるなど、地元民にはまるで違う世界を見るような、ぜいたく極まる生活環境だった。
 当時の関係者の話によれば、クリスマスにはここで幹部の家族たちの、パーティーが開かれ、アイスクリームやケーキが振るまわれ、レコード音楽が始終流れていたという。また厳寒期にはいてついた川で、スケートを楽しむ技術者もいたという。まさに山中の夢の国である。
◎ルアーフィッシング
 現在盛んに行われているルアーフィッシングが、初めて日本に紹介されたのは1927(昭和2)年。奥日光や中禅寺湖が、事はじめの場所とされている。またその創始者としてハンターの名があげられている。


ハンス・ハンターの写真
ハンス・ハンター







見立鉱山の写真
最盛期のころの見立鉱山。クラブハウスの英国館がにぎわった

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