山田新一(やまだしんいち)1899(明治32)年〜1991(平成3)年


●中央画壇で輝く功績
 光風会の重鎮で日展参与になった洋画家の山田新一。本県出身の洋画家として中央画壇で彼ほどの活躍をした者は見当たらない。父親の郷里である都城で暮らしたのは旧制都城中学の5年間に過ぎないが、死の間際まで都城弁を使うなど郷里への気配り、愛情を忘れなかった。
 1899(明治32)年、台北市で出生。父親が親交を結んでいた同郷の上原勇作(のち陸軍元帥)の命令で旧制都城中学校(現都城泉ケ丘高校)に入学。卒業後は上京して川端画学校に入り藤島武二らに学んだ。ここで終生の親友となる佐伯祐三と出会い、共に東京美術学校(現東京芸大)に入学した。
 1923(大正12)年、韓国の京城第二高校の美術講師に招かれて渡韓。翌年の第3回朝鮮美術展で「花と裸女」が首席入選、第4回展でも「美しきリューシャ」が首席入賞した。1928(昭和3)年、佐伯の後を追うようにパリに渡り、サロン・ドートンヌやサロン・チュイレリーで入選、招待出品を重ねた。
 終戦直後、藤田嗣治に代わり戦争美術品の後始末に奔走。1949(同24)年、光風会審査員に推挙され、翌年の第4回日展で「湖上客船」が最高賞の岡田賞を受け、一躍国内でも脚光を浴びた。このほか光風会評議員や日展審査員、京都工芸繊維大教授などを務め、1962(同37)年には日展評議員。
 1964(同39)年、再びパリヘ。パリジェンヌや風景を主題に精力的に制作し、文化交流の功労でフランス政府から芸術文化騎士勲章を受章。帰国後は京都女子大教授などを務めながら制作に没頭し多くの秀作を残した。(古垣 隆雄)
メモ
◎終生の友
 川端画学校で山田に3カ月遅れて入学してきたのが大阪のお寺の息子の佐伯。陽気な山田と物静かな佐伯。2人は出会ったときからすぐ打ち解けた。教室であみだくじを作って焼きイモ屋へ走る生徒を決めるのは山田、いつも遠目に見ていたのが佐伯。東京美術学校に同時に進学、卒業後は江藤純平らを加えて薔薇門社を結成し画壇に新しい風を吹き込んだ。そのころ佐伯が脱帽している。「山田君には人物画では勝てない」。戦前、朝鮮とパリに離れていたときも書簡でお互いの制作意欲を確認しあっている。佐伯の勧めで1928(昭和3)年、山田がパリに着いた時、出迎えたのは佐伯ではなく山口長男。結核の佐伯はすでに病床にあった。その半年後、佐伯はパリで若死にするが、臨終のまくら元に真っ先に駆け付けたのも山田。佐伯のデスマスクをとったのは留学中の彫刻家の卵、日名子実三(宮崎市の「平和の塔」の設計者)だった。


山田新一の写真
山田 新一







シャンダーユ・ブルーの画像
パリの若い女性を描いた「シャンダーユ・ブルー」(1982年)

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