黒木清次(くろきせいじ)1915(大正4)年〜1988(昭和63)年


●抑制のきいた叙情詩
 1915(大正4)年頃木村で生まれた。旧制都城中学校(現泉ケ丘高等学校)入学、3年生の時文芸同人誌『白』に詩を発表。宮崎師範(現宮崎大学教育学部)卒業。1938(昭和13)年谷村博武、富松良夫などと『龍舌蘭』を創刊。小戸小学校(宮崎市)、小林小学校に勤めたあと、1940(昭和15)年中国に渡る。1943(同18)年『上海文学』に『棉花記』を発表。第18回芥川賞候補となる。翌年続いて『続棉花記』で第19回芥川賞候補、第1回上海文学賞。1945(同20)年敗戦、引き揚げ。
 「西部図書株式会社」「菊書房」をへて日向日日新聞社(現宮崎日日新聞社)に入社。その傍ら『龍舌蘭』『九州文学』『日本未来派』同人として幅広く作品活動を展開。詩集、小説集など著書も多く、なかでも詩集『乾いた街』は1961(同36)年H氏賞候補となる。続いて『風景』(1966)『麦と短剣』(1961)さらに『朝の鶴』(1978)は日本詩人クラブ賞候補など、作品には抑制のきいた叙情詩とふといタッチの意志的なものがある。
 詩のほか小説集『蘇州の賦』(1966)宮崎の女性史『日向のおんな』(1961)などもある。1966(同41)年第17回県文化賞受賞。なお1987(同62)年『龍舌蘭』50周年にあたり記念行事を開催し、小説集『黒木清次小説集』、詩集『朝の鶴増補版』を同時出版した翌年、心筋梗塞(こうそく)で急逝。その時、エフエム宮崎社長であった。宮崎日日新聞社社長からの転進のあとである。
 没後、須木村に「朝の鶴」を刻した文学碑が建立され、毎年詩碑祭がひらかれている。故人の作詞した村内小中学校の校歌がうたわれるが、故郷の先輩にささげる児童生徒たちの心が響きわたる。(黒木 淳吉)
メモ
 『龍舌蘭』118号は黒木清次追悼号になっていて、各界から50人をこえる追悼のことばが載っている。それらのなかから、故人の横顔をさぐってみる。
 原田種夫(福岡)「すぐれた作家だが、詩集『朝の鶴』の品格の高さ鮮烈なリリシズムの流れといい、心象を美しく鶴を通して定着させた力量は大変なものだ」
 伊藤桂一(東京)「ほんとに惜しい人を亡くした。無念、哀悼の思いは、終生、私の心から消えることはないだろう」
 丸山登(福岡)「その文章や詩歌を読むたびに、市民的良心を風にさらして生きてこられた生活ぶりの一端をきくたびにつよい敬愛をよせたものである」
 黒田達也(福岡)「私は黒木さんのことを“九州の良心”として深く敬愛し信頼していたということである。それは知性と素朴を併せ持つ誠実な人柄から受ける印象であった」


黒木清次の写真
黒木 清次







文字碑の写真
須木村に建てられている『朝の鶴』の文字碑

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