坂田勝郎(さかたかつろう)1904(明治37)年〜1990(平成2)年


●マスコミ界の指導者
 「ジャーナリズムは、社会の進展をリードする役割をもつ」という信条をもち、ジャーナリスト、経営者として激動の時代を生き抜いた坂田勝郎は、新聞、放送界の指導者として強烈な印象を人々の胸に残している。
 勝郎の名は、明治天皇の侍読を務めた秋月種樹により、日露戦争の戦勝の願いを込めてつけられた。高鍋小学校を卒業し、のち熊本の第五高等学校から京都大学へと進んだ。1932(昭和7)年、大阪毎日新聞社に入社。満々たる覇気を持して、納得できるまで追求する厳しさには上司の信頼が厚かった。
 やがて、バンコク特派員を経て広島支局長となった。原爆投下の2日前広島を離れたが、のち爆心地に立ち無常を感じ、「流水先を争わず」の心境を得た。
 郷里宮崎とは、支局長代理や宮崎放送取締役としてかかわりをもち、その後毎日新聞社長から毎日放送副社長に迎えられた。社長、相談役・名誉会長と経営者の道を歩んだが、和を大切にし、よく人の意見に耳を傾け、先見性のある経営感覚で手腕を遺憾なく発揮した。
 社外の人々との交流を重視し、天性の風格と温顔包容の大きさをもって、多くの財界官界人との交流を深めた。大阪清風社理事長、近畿宮崎県人会会長や日中友好の交流など幅広い活動を行った。大阪の日本万国博覧会では、清風社の万博委員長として業務を総括した。また、日本民間放送連盟副会長、報道委員長などを務め、1975(昭和50)年には勲二等瑞宝章を受章。亡くなった年の10月、毎日放送新社屋1階には、彼の大局無私の精神と偉大な功績を偲んで胸像が建てられた。(那賀 教史)
メモ
◎心強い姉、花夫婦の存在
 「ニュウガクセヨ イサイフミ」の電報が、勝郎のもとへ届いた。大学合格直後、学資に苦労する母を思い、入学を思い悩んでいた時のことである。打電は、当時教師として外地勤務にあった花の夫、清からであった。花は努力の人で、女学校を授業料免除の特待生、卒業後は代用教員としてよく母を助けた。歌人牧水に傾倒し短歌をつくるなど、その積極的な生き方は清と共に勝郎の心の支えとなった。清の父、市作は、木城村長、児湯郡議会議員として活躍した。1918(大正7)年、白樺派の作家、武者小路実篤が、理想郷を求めて当地を訪ねた時、その考えに共鳴し、石河内を紹介し、「新しき村」の誕生に奔走した。
 折々、高鍋の墓参に帰った勝郎は、木城町の姉夫婦の家に必ず立ち寄り、懐かしい話に時を過ごした。「今日あるのは、義兄さんと姉さんのおかげです」と、当時の学資支援の感謝を忘れなかった。


坂田勝郎の写真
坂田 勝郎(毎日放送提供)







高鍋町の写真
坂田勝郎が幼少の時を過ごした高鍋町筏地区城下町高鍋、武家屋敷の雰囲気が残る

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