三輪忠珍(みわただよし)1908(明治41)年〜1956(昭和31)年


●日向夏ミカンを研究
 日向夏ミカンは今日宮崎の特産物として良く知られている。
 原木は文政年間1818年から29年ごろ現宮崎市曽井の真方安太郎宅で偶発実生から発見された。1888(明治21)年田村利親によって、日向夏ミカンと命名された。現在、県内では清武町、宮崎市、北郷町、日南市などを中心に年間約2,500トンが生産されている。果実はやや下ぶくれの球形で平均の重量は200グラム、果面は黄色、果肉は淡黄色で多汁、甘酸適度で香気があり、風味が良い。一般的には早期を除き、3〜6月が出荷期で、氷点下4度以下の低温では果汁が減少しスカスカになりやすい。食べ方はリンゴをむく要領で皮を薄くむき、白皮をつけたままそぎ切りにして食べると独特の風味がある。種子が多いことが欠点であったが、宮崎大学と県総合農業試験場が協力して研究した結果、種なし化に成功した。
 この日向夏ミカンの研究に心血を注いだ1人に、宮崎大学の三輪忠珍がいる。
 三輪忠珍は1908(明治41)年宮崎市の出身。旧制宮崎中学校(現大宮高校)から宮崎農専(現宮崎大学農学部)さらに京都大学農学科に進学、同大学院を経て、助手。1937(昭和12)年帰郷して母校の宮崎農専に勤め、1950(同25)年宮崎大学農学部教授となった。翌年農学博士、その年に創設された第1回宮崎県文化賞を受賞した。「多年、日向夏ミカンの授粉および授精に関する研究に努力し本県の文化向上に寄与した功績」がその理由である。
 しかし、その成果を十分に見ることなく、1956(昭和31)年48歳という若さで逝去した。(黒木 淳吉)
メモ
 外山三郎「スギと共に60年」(宮崎日日新聞連載)によると、「私が通っていた住吉小学校の1年先輩に河井田忠珍さんと立山清佑さんがおられた。河井田さんはのちに青島の資産家三輪家に養子になられた。この2人は小学5年生から旧制宮崎中学校に入学した秀才である。確か小学校5年生から中学校に入学が認められたのは、この2人が最初ではなかったかと思う」とあり「豪放磊落(らいらく)な性格であったが、反面心の優しい温かい人でもあった。友人たちは忠珍(ただよし)とは呼ばず、チュウチンさんと親しく呼んでいた。学生たちにも人気があった。また研究熱心なことでも知られていて、日向夏ミカンの研究では第一人者であった」と述べている。
 また、自分の専門以外にも目を向け、宮崎中学校の同級生で仲の良かった中村地平さんと一緒に「宮崎市都市美懇話会」を作り、宮崎市を美しい街並みにしようと実現に努力された人でもある」と述べている。


三輪忠珍
三輪 忠珍







原木から3代目の日向夏、樹齢50年〜60年(宮崎市曽井)

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