酒井繁一(さかいしげいち)1901(明治34)年〜1984(昭和59)年


●「ひえつき節」を作詞
 那須の大八鶴富おいて
  椎葉たつときゃ目に涙よ
 源平の恩讐(おんしゅう)を越えた恋物語によって、椎葉民謡の「ひえつき節」は全国で愛唱され、また地元観光の大きな柱になっている。その抒情詩をつづった酒井繁一は、県南の南郷町に生まれた。地元中学校から現早稲田大学の文学部へ進み、終生の師となる歌人の窪田空穂(くぼたうつほ)と出会った。
 しかし折からの経済不況で家業が傾き、やむなく休学して帰郷。1927(昭和2)年、諸塚村七ツ山小学校の代用教員として赴任した。ここで村人から「ひえつき節」を聞かされ、歌の広場に出せるような新しい歌詞をと頼まれ、夏休みにこれを書き上げて友人に託し、復学のため再び上京した。ところが実家が倒産してしまい、やむなく1932(同7)年、一家をあげてブラジルに移住した。
 しかし現地の状況はあまりにもひどく、あり地獄のような苦しい生活を経て、ようやく暮らしが安定したところに第2次世界大戦がぼっ発、再び奈落(ならく)の底へ突き落とされた。
 そうして迎えた終戦後初めての正月、サンパウロ市の日本人街で、自分の作詞した「ひえつき節」と劇的な再会をする。酒井繁一はその後ブラジル歌壇の第一人者として、日系移民たちの短歌活動を指導し、1957(同32)年、第1回「コロニアル文学賞」を受賞。続いて移住功労者として政府から表彰された。
 1983(昭和58)年、置県100年祭に招かれて帰宮、歌のふるさとを訪ね旧交を温めるが、帰国後すぐに体調を崩して入院。翌1984(同59)年スザノ市の自宅で亡くなった。享年83歳。(原田 解)
メモ
◎涙の再会
 終戦後間もなくの正月、酒井繁一が買い物の帰りに、サンパウロ市内の日本人街を歩いていたところ、日系移民の書店から、聞き覚えのある調べが流れてきた。
 懐かしい「ひえつき節」である。
 しかも歌われているのは、自分がかつて作詞した源平の恋物語である。
 「私は息をのみ、その場に思わず立ち止まりました。まさしく自分の書いたあの時のあの詩だ、思わず胸が熱くいっぱいになって、涙があふれて止まりませんでした」
 置県100年祭で帰郷した際、酒井は周囲にそう語っている。秘境椎葉から流れ出た歌の調べが、海を越えはるばるとブラジルヘ流れ着く、まさに民謡昭和史のドラマである。
◎酒井繁一の主な作品
・歌集「寒暖」1956年
・歌集「朝の香」1957年
・随筆集「ブラジル日記」1957年
・小説「民族の苦悩」1961年
・歌集「郷土と私」1968年
・歌集「産土」1970年


酒井繁一の写真
酒井 繁一







鶴富屋敷の写真
酒井が「ひえつき節」に盛り込んだ椎葉の鶴富屋敷

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