園山民平(そのやまみんぺい)1887(明治20)年〜1955(昭和30)年


●音楽文化向上に寄与
 1949(昭和24)年1月28日夜、宮崎市の教育会館ホールで、誕生したばかりの宮崎交響管弦楽団による第1回定期演奏会が開かれた。詰め掛けた観客の惜しみない拍手で、場内は熱気と興奮に包まれた。
 この記念すべき舞台で指揮をしたのが、楽団の生みの親でもある作曲家・園山民平だった。島根県出雲市の出身で、1910(明治43)年、東京音楽学校(現芸大)の師範科を卒業。1912(大正元)年、宮崎高等女学校教諭となって10年間音楽教育に当たり1922(同11)年1月旧満州へ渡る。同じく1924(同13)年、大連高等音楽学校を設立して校長となり、満州国の国歌や数多くの童謡を手掛けて、作曲家としての地位と評価を確かなものにした。終戦後の1947(昭和22)年、民平はゆかりの地宮崎に引き揚げ、渇き切った人々の心に音楽で潤いをと、新しい文化運動に取り組んだ。そして1949(同24)年に市民オーケストラの先駆けである、宮崎管弦楽団を、次いで26年には宮崎オペラ協会を設立し、県民への情操教育や後継者の育成に努めた。
 とりわけ地域に根ざした「桜子物語」や「鶴富物語」などの、創作オペラとの取り組みは、先進的な試みとして高い評価を受けた。また忙しい時間を割いて県内各地へ足を向け、伝え残されている民謡を照査、採譜し、『日向民謡101曲集』を上梓(し)。こうしてまかれた1粒の種は、後継者たちの手を経て、現在大きな実りを本県音楽界にもたらしている。
 30年1月、病のため逝去。その死を惜しむ人々による音楽葬が、県公会堂で行われた。享年68歳。第2回県文化賞受賞。(原田 解)
メモ
◎東北なまり
 松本清張のミステリー「砂の器」にも取り上げられているように、出雲弁は発音が鼻にかかって濁り、よく東北弁と聞き間違えられる。その島根県出身である民平さんが1度あるラジオ番組で「たいへんロマンチックな稗搗節」と、鶴富姫の話をされたところ、これが「たいへんロマンツックな、ひえつきブス」となり、相手が思わず吹き出すという、一幕があった。
〈思わぬプレゼント〉
 ようやく楽団を結成はしたものの、戦後間もなくとあって、肝心の楽器が手に入らず、第1回公演には手作りの楽器が登場した。それを知った当時のウィンバリー民事部長は、さっそく財界人を集めてパーティを開き、寄付を募って楽器の購入費として民平さんに贈り、自らもビオラを寄贈した。24年師走、任を終えた彼は帰国の途に着いたが、宮崎駅頭は楽団員や県民で埋まりお互いに涙の別れとなった。


園山民平の写真
園山 民平







演奏会の写真
宮崎管弦楽団の第5回演奏会(県公会堂で1953年ごろ)

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