関本健治(せきもとけんじ)1883(明治16)年〜1970(昭和45)年


●夫妻で訓盲院を創始
 1878(明治11)年わが国に初めて京都盲あ院が設立された。フランスで開発された点字が、わが国に翻案されたのは、1890(同23)年のことであった。また本県に初めて日向訓盲院が開かれたのは、1910(同43)年である。
 関本健治は現日向市細島に生まれた。幼少の時母を失い、4歳で失明した。父と姉と優しい義母に恵まれ、視力は失ったものの、向学心は失わなかった。1898(同31)年、15歳になって、京都盲あ院に進学した。
 鉄道などなかった時代なので、恐らくは船便で京都に向かった。修学を終えると、盲教育未開の地に学校を設立しようと決心して、宮崎に居住した。クリスチャンとして信仰も厚く、宣教師C・A・クラークと親しい間柄となった。クラークは健治の志を知ると早速教会の1室を提供して、盲児童3人に点字の教育が始められた。1910(同43)年7月1日のことであった。
 クラークは自家の手伝いをしていたリツという適齢の女性と、健治の縁を結んだ。訓盲院はこの夫妻によって創始の時期を築いた。天意というべきである。訓盲院が県立盲学校となったのは、1935(昭和10)年のことであった。校舎も転々として移った。
 1958(同33)年、わが国の盲ろう教育80年の記念の年に、教育功労者として全国表彰を受けた。健治はこの年まで盲学校の鍼灸(しんきゅう)治療の教育に当たった。彼が携わった48年間の盲教育の中で、県立校の校長を努めたのは当初の2年余であった。(甲斐 亮典)
メモ
◎50年遅れのスタート
 日向訓盲院は1919(大正8)年私立学校として認可された。翌年、鍼(はり)・灸(きゅう)・按摩(あ)・マッサージ師養成施設として指定・認可された。
 「盲学校及び聾学校令」が公布されて、これらの学校の設立を府県の義務としたのは、1923(同12)年のことである。
 普通教育に比べて50年遅れた。日向訓盲院の時代は、県の補助金と賛助会員の篤志寄付によって運営された。
 創始の時期は、県においても「慈善事業」として理解されていた。この時期の健治の苦心は今日では想像することもできない。


関本健治の写真
関本 健治







県立盲学校の写真
関本が2年余り校長を務めた現在の県立盲学校

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