有馬美利(ありまみとし)1888(明治21)年〜1966(昭和41)年


●本県初の民放局開局
 1953(昭和28)年、郵政省は本県に新しい周波数を割り当てたが、地元では民放設立の動きがまったくなく、鹿児島県の南日本放送がこの機会を利用し、宮崎市に中継局をつくろうと運動を始めた。そのとき、待ったをかけたのが時の田中長茂知事で、ぜひ県民の手で民放を−と関係者を説き伏せ、宮崎商工会議所の有馬美利会頭の奮起を促した。盛り上がる世論に彼はこの大役を引き受け、苦労を重ねて翌年の7月1日、本県初の民放局「ラジオ宮崎」(現MRT宮崎放送)を開局させ、初代社長に就任した。
 この画期的な事業でさい配を振るった有馬美利は、現田野町に生まれた。その後、家業を継ぐべく京都産業蚕糸講習所に進み、1912(明治45)年、卒業して帰郷する。
 1924(大正13)年、宮崎市制施行に伴う第1回の市会議員選挙があり、これに立候補して当選。以後、4期連続当選し、市議会議長や全国市議会議長会の会長に選ばれた。1939(昭和14)年、県議に転身して3回当選、1942(同17)年には県議会議長に選任された。
 戦後公職追放に遭うが、1951(同26)年、宮崎商工会議所会頭に推され、商工界の基礎固めに力を注ぐ。そして「ラジオ宮崎」開局の翌年社長職を退き、宮崎市長選に立候補して当選。3期にわたり宮崎港の建設や地場産業の振興、教育や福祉の充実などに努めた。
 剃刀(かみそり)有馬と呼ばれるほど頭の切れる彼だったが、一方、町の声にもよく耳を傾け、日向弁丸出しで市民と語り合い親しまれた。しかし1966(同41)年7月4日、任期半ばで永眠する。市はその功績に対して名誉市民を贈りたたえた。(原田 解)
メモ
◎感激の涙
 会社設立からわずか1年での放送局建設は、初めての体験ということもあって、敷地の決定、地権者との交渉、人材の確保など、大変な苦労があった。とりわけ1954(昭和29)年の梅雨は例年より長かったため、スタジオや局舎の工事が大幅に遅れ、関係者を悩ませた。有馬社長は足しげく現場へ通い督促激励した。
 そうして迎えた7月1日早朝、宮崎市下北方町のラジオ宮崎のスタジオから、開局を告げる第一声が流れ出た。県内初の民間放送の誕生である。
 その記念すべきスイッチを押したのは、もちろん社長自身だったが、冷静沈着な剃刀有馬も、さすがこの時ばかりはほおを紅潮させ、目を潤ませていた。
 翌年4月彼は社長の席を、岩切章太郎にバトンタッチして、宮崎市長選に出馬。今でも語り草となっている熾烈な戦いに勝ち抜いて当選。政界人としての活躍を続ける。


有馬美利の写真
有馬 美利







当時の本県初の民放局ラジオ宮崎の写真
有馬が初代社長を務めた開局当時の本県初の民放局「ラジオ宮崎」(現宮崎放送)

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