石橋國次(いしばしくにじ)1897(明治30)年〜1971(昭和46)年


●高千穂峯40年間守る
 石橋は福岡県に生まれた。八女郡星野村立高等小学校を卒業後、旧制中学校に入学。3年生の時、飲酒事件が起こって問題になった折、先生と友人らをかばい、自分1人自ら退学処分に甘んじた。その後、写真屋の見習い、菓子職人、兵役などを経て1920(大正9)年、鹿児島県で菓子屋の職人頭となった。2年後には都城市で菓子商として独立した。
 商才もあり商売熱心でもあったので、これで繁盛となりかかったところに、世話好きが仇(あだ)となって貸し倒れに遭って失敗した。こんな時、見合いでタネさんと出会って結婚、彼女の兄を頼って小林市に住んだ。ところが運命の皮肉か、その義兄の家が火災に遭って、再起不能の打撃を受けた。不運続きの悔しさに、悩み苦しんだ揚げ句、彼の足は霊峰・高千穂峯に向かい、頂上近くの岩屋にこもって3週間も断食を行った。
 山の霊気にひかれて山で暮らすようになり、妻子を養うために山頂で水売りを始めた。27歳のころであった。1925(同14)年、登山好きの皇族として知られる秩父宮さまが、高千穂峰に登山されることになって、林田温泉から登山された宮さまを、山頂から峡野神社まで案内することになった。
 この頃には自他ともに峰守として認められるようになっていた。1940(昭和15)、年、紀元2,600年記念行事のころは、祖国振興ブームの中で日本発祥の地として登山者が殺到した。
 若い時30キロ余の荷を背負って山頂に登っていたが、1971(昭和46)年、74歳で亡くなった。峰守40年の生涯であった。(森本 辰雄)
メモ
 山頂小屋「霊夢庵」は、高原町大字蒲牟田1番地。石橋がここから高原の自宅に帰るのは年3回、延ベ2週間ほどであった。1957(昭和32)年に完成した現在の山小屋は、延べ700日かかって出来上がっている。
 山には多くの自殺志願者も来た。峰守40年の間に50人余りを救助した。山に迷った遭難者も数えきれないほど助けた。しかし、礼状が返ってくるのはわずかであった。
 1932(同7)年から同志と共に霧島山の国立公園指定の運動を続け、指定は2年後に実現した。國次の跡を継いだ2代目・利幸も既に引退し、現在は3代目・孫の晴生が継いでいる。


石橋國次の写真
石橋 國次







高千穂の峰の写真
韓国岳から眺めた高千穂の峰、山頂小屋「霊夢庵」がある

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