宮田盛儀(みやたもりよし)1876(明治9)年〜1963(昭和38)年


●水田開発し民生向上
 宮田は1876(明治9)年、現三股町長田に生まれた。子供のころから、体格も頭脳も優れ、人柄も温厚で友人たちに信頼された。
 1898(同31)年には、周囲の人々に推されて、22歳で村会議員となり活躍の場を広げた。用水路開発による村勢の振興に意を注ぎ、1905(同38)年沖水川から水路を引き、長田地区に7町歩(7ヘクタール)の水田を開いた。当時の農村では、水田を増やすことが最も重要なことであった。
 次いで天木野地区に用水路を開発し20町歩(20ヘクタール)の水田を、さらに轟木地区に6町歩(6ヘクタール)の水田を開いた。それによって、畑でアワやカンショを主要作物としていた村の人たちは、水田稲作が可能となり、米を常食できるようになった。また耕地の生産力が高まり、村の生活も豊かになった。
 30歳前後でこのような経験を積み、さらに現在の串間市に出張して、40町歩(40ヘクタール)の水田を開いた。
 1934(昭和9)年には、三股中央部の樺山耕地整理組合の初代組合長となり、7年をかけて130町歩(130ヘクタール)に及ぶ広大な水田開発を成功させた。
 このほか、三股から北郷に通ずる道路の改修、用水路水源の沖水川の護岸工事、長田地区の共有林300町歩(300ヘクタール)の育成など、民生の向上に努力し続けた。村議45年、県議6年、村長11年、常におごることなく、村民のために尽くした。1963(同38)年、87歳で逝去、人々は町葬の礼を贈った。(甲斐 亮典)
メモ
 宮田盛儀は、土地では「宮田盛儀翁」と呼ばれている。生前、村人はその功績に感謝し、後世に伝えるために2基の石碑を建てた。生前に記念碑を贈られるのは、まれなことである。
 1基は墓碑前に供えた記念碑。もう1つは長田土地利用組合解散記念碑である。
 前者の文中には「…翁は最高責任者として区有林の育成に50余年肝胆を砕き殆ど一生を之に献身し…最後には莫大なる分配を得しめたり」とある。
 後者の文中には「…生涯を之に献身せられた宮田盛儀翁の功績は当区史上不滅の光輝を放ち永久区民の感謝に値する」とある。


宮田盛儀の写真
村長時代の宮田盛儀







記念碑の写真
人々が功績を感謝して建てた記念碑

目次へ
85 石橋 國次のページへ
87 黒木 挽石のページへ